先生への通信
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鳩《はと》に豆を買ってやる

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)肥《ふと》った|尼たち《シュエスター》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](明治四十三年一月、東京朝日新聞)
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     ヴェニスから

 お寺の鳩《はと》に豆を買ってやることは日本に限ることと思っていましたがここのサンマルコのお寺の前でも同じことをやっています。ただし豆ではなくてとうもろこしを細長い円錐形《えんすいけい》の紙袋につめたのを売っています。
 大道で鍋《なべ》を煮立たせて、ゆでだこを売っている男がいました。
 ヴェニスの町は朽ちよごれているが、それは美しく朽ちよごれているので壁のはがれたのも、ないしは窓からぶら下げたせんたく物までも、ことごとく言うに言われぬ美しくくすんだいい色彩を示しています。霜枯れ時だのに、美しい常磐木《ときわぎ》の緑と、青玉のような水の色とが古びた家の黄や赤や茶によくうつります。
 ゴンドラもおもしろく、貧しい女も美しく見えます。
[#地から3字上げ](明治四十三年一月、東京朝日新聞)

     ローマから

 ローマへ来て累々たる廃墟《はいきょ》の間を彷徨《ほうこう》しています。きょうは市街を離れてアルバノの湖からロッカディパパのほうへ古い火山の跡を見に参りました。至るところの山腹にはオリーブの実が熟して、その下には羊の群れが遊んでいます。山路で、大原女《おはらめ》のように頭の上へ枯れ枝と蝙蝠傘《こうもりがさ》を一度に束ねたのを載っけて、靴下《くつした》をあみながら歩いて来る女に会いました。角《つの》の長い牛に材木車を引かせて来るのもあれば、驢馬《ろば》に炭俵を積んで来るのもありました。みかんの木もあれば竹もあります。目と髪の黒い女が水たまりのまわりに集まってせんたくをしているそばには鶏が群れ遊び、豚が路傍で鳴いています。バチカンも一部見ましたが、ここの名物はうまい物ばかりのようであります。
[#地から3字上げ](明治四十三年二月、東京朝日新聞)

     ベルリンから(一)

 今ここのベルリイナア座で「タイフン」という芝居をやっています。作者はハンガリー人で、日本の留学生のことを仕組んだものだそうです。たいへん人気がいいそうであります。主人公の日本人の名がドクトル・タケラモ・ニトベというのだそうで、このタケラモだけでも行って見る気がしなくなります。人の話によるとなかなかよく日本人の特性をうがっていて、むしろ日本人の美点を表現しているそうですが、タケラモに恐れてまだ見ません。
[#地から3字上げ](明治四十三年四月、東京朝日新聞)

     ベルリンから(二)

 今度の旅行中は天気の悪い日が多くて、ことにスイスでは雨や霧のためにアルプスの雪も見えず、割合につまりませんでした。それでもモンブランの氷河を見に行った日は天気がよくておもしろうございました。寒暖計を一本下げて気温を測ったりして歩きました。つるはしのような杖《つえ》をさげて繩《なわ》を肩にかついだ案内者が、英語でガイドはいらぬかと言うから、お前は英語を話すかときくと、いいえと言いました。すべらない用心に靴《くつ》の上へ靴下をはいて、一人で氷河を渡りました。いい心持ちでした。氷河の向こう側はモーヴェ・パーという険路で、高山植物が山の間に花をつづり、ところどころに滝があります。ここから谷へおりる途中に、小さなタヴァンといったような家の前を通ったら、後ろから一人追っかけて来て、お前は日本人ではないかとききますから、そうだと答えたら、私は英人でウェストンというものだが、日本には八年間もいてあらゆる高山へ登り、富士《ふじ》へは六回登ったことがあると話しました。その細君は宿屋の前の草原で靴下を編んでいました。そこから谷底へおりてシャモニの村まで歩きましたが、道ばたの牧場には首へ鈴をつけた牛が放し飼いにしてあって、その鈴の音が非常にメロディアスに聞こえます。また番人の子供やばあさんもほんとうに絵のようで愉快でした。日本にもあるような秋草が咲いていたり、踏切番の小屋に菊が咲いていたり、路傍のマリヤのみ堂に花が供えてあるのも見ました。シャモニの町へはいるころには、もう日が暮れかかって、まっかな夕日がブゾンの氷河の頂を染めた時は実にきれいでした。村の町には名物の瑪瑙細工《めのうざいく》やら牛の角細工を並べた店ばかり連なって、こういう所にはおきまりのキネマが自働ピアノで客を呼んでいました。パリあたりから来ているらしい派手な服装をした女が散歩していました。
 シャモニからゼネヴへ帰って、郊外に老学者サラサン氏をたずねました。た
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