巧智の例として挙げたものと見られる。
それはとにかく西鶴のオリジナリティーの尊重の中にも、西鶴の中の科学的な要素の一つを認めることが出来るかと思われる。
次には、『桜陰比事』に最も明白に現われている西鶴の「探偵趣味」とも称すべきものが、これもまたある意味では西鶴の中の科学者の面貌を露出したものと云われるであろう。尤もこの短篇探偵小説における判官の方法は甚だしく直観的要素の勝ったもので解析的論理的な要素には乏しいと云わねばならないが、しかし現代科学の研究法の中にも実はこの直観的要素が極めて重要なものであって、これなしには科学の本質的な進歩はほとんど不可能であるということはよく知られたことである。とにかくそういう見方から西鶴の探偵趣味とその方法を観察するのも一興であろう。
例えば殺人罪を犯した浪人の一団の隠れ家の見当をつけるのに、目隠しされてそこへ連れて行かれた医者がその家で聞いたという琵琶《びわ》の音や、ある特定の日に早朝の街道に聞こえた人通りの声などを手掛りとして、先ず作業仮説を立て、次にそのヴェリフィケーションを遂行して、結局真相をつき止めるという行き方は、科学の方法と一脈の相通ずる所があると云われる。また例えば山伏の橙汁の炙出《あぶりだ》しと見当をつけてから、それを検証するために検査実験を行って詐術を実証観破するのも同様である。「十夜の半弓《はんきゅう》」「善悪ふたつの取物」「人の刃物を出しおくれ」などにも同じような筆法が見られる。
また一方で、彼の探偵物には人間の心理の鋭い洞察によって事件の真相を見抜く例も沢山ある。例えば毒殺の嫌疑を受けた十六人の女中が一室に監禁され、明日残らず拷問《ごうもん》すると威《おど》される、そうして一同新調の絹《すずし》のかたびらを着せられて幽囚の一夜を過すことになる。そうして翌朝になって銘々《めいめい》の絹帷子《きぬかたびら》を調べ「少しも皺《しわ》のよらざる女一人有」りそれを下手人と睨《にら》むというのがある。「身に覚なきはおのづから楽寝|仕《つかまつ》り衣裳付|自堕落《じだらく》になりぬ。又おのれが身に心遣ひあるがゆへ夜もすがら心やすからず。すこしも寝ざれば勝《すぐ》れて一人帷子に皺のよらざるを吟味の種に仕り候」とある。少し無理なところもあるが、狙い処は人間のかくれた心理の描写にある。この一篇で、幽閉された女中等が泣いたり読経《どきょう》したりする中に小唄を歌うのや化物《ばけもの》のまねをして人をおどすのがあったりするのも面白い。その外にも、例えば「人の刃物を出しおくれ」「仕《し》もせぬ事を隠しそこなひ」のような諸篇にも人間の機微な心理の描写が出ている。「白浪のうつ脈取坊」には犯罪被疑者がその性情によって色々とその感情表示に差違のあることを述べ「拷問」の不合理を諷諌《ふうかん》し、実験心理的な脈搏の検査を推賞しているなども、その精神においては科学的といわれなくはないであろう。「小指は高くゝりの覚」で貸借の争議を示談させるために借り方の男の両手の小指をくくり合せて封印し、貸し方の男には常住坐臥不断に片手に十露盤《そろばん》を持つべしと命じて迷惑させるのも心理的である。エチオピアで同様の場合に貸し方と借り方二人の片脚を足枷《あしかせ》で縛り合せて不自由させるという話と似ていて可笑しい。また有名な「三人一両損」の裁判でもこれを西鶴に扱わせるとその不自然な作り事の化けの皮が剥がれるから愉快である。勿論これらの記事はどこまでが事実でどこからが西鶴の創作であるかは不明であるが、いずれにしてもこれらの素材の取扱い方に著者の心理分析的な傾向を認めても不都合はないはずであろうと思われる。
これらの心理的写実を馬琴や近松のそれと比べてみると後者の不自然さが目立って来るようである。後者等は大体において人間心理を伝統的理想の鋳型に嵌《は》めて活動させているとしか思われないのに反して、西鶴だけは自分自身の肉眼で正視し洞察し獲得した実証的素材を赤裸々に記録している傾向がある。
西鶴の人間に関する観察帰納演繹の手法を例示するものとしてはまた『織留』中の「諸国の人を見しるは伊勢」に、取付虫《とりつきむし》の寿林《じゅりん》、ふる狸《だぬき》の清春《せいしゅん》という二人の歌比丘尼《うたびくに》が、通りがかりの旅客を一見しただけですぐにその郷国や職業を見抜く、シャーロック・ホールムス的の「穿《うが》ち」をも挙げておきたい。
科学者としても理論的科学者でなくてどこまでも実験的科学者であった西鶴が、また人間の経験の習熟練磨の効果を尊重したのは当然のことである。そうした例としては『諸国咄』中の水泳の達人の話、蚤虱《のみしらみ》の曲芸の話、また「力なしの大仏」の色々の条項を挙げることが出来る。『桜陰比事』の「四つ五器《ごき》かさねての御意」などもそうした例であると同時に、西鶴の実証主義を暗示するものと見られる。
彼の実証主義写実主義の現われとしてその筆によって記録された雑多の時代世相風俗資料は近頃ある人達の称える「考現学的」の立場から見て貴重な材料を供給するものであることは周知なことである。例えば当時の富人の豪奢の実況から市井裏店《しせいうらだな》の風景、質屋の出入り、牢屋の生活といったようなものが窺われ、美食家や異食家がどんなものを嗜《たしな》んだかが分かり、瑣末《さまつ》なようなことでは、例えば、万年暦、石筆(鉛筆か)などの存在が知られ、江戸で蝿取蜘蛛《はえとりぐも》を愛玩した事実が窺われ、北国の積雪の深さが一丈三尺、稀有の降雹《こうひょう》の一粒の目方が八匁五分六厘と数字が出ている。好色物における当時の性的生活の記録については云うも管《くだ》であろう。
実証的な西鶴のマテリアリズムは彼の「町人もの」の到る処に現われているのであるが、『永代蔵』にある「其種なくて長者になれるは独りもなかりき」という言葉だけからもその一端を想像される。彼は興味本位の立場から色々な怪奇をも説いてはいるが、腹の中では当時行われていた各種の迷信を笑っていたのではないかと思われる節もところどころに見える。『桜陰比事』で偽山伏を暴露し埋仏詐偽の品玉を明かし、『一代男』中の「命捨ての光物」では火の玉の正体を現わし、『武道伝来記』の一と三では鹿嶋の神託の嘘八百を笑っている。
この迷信を笑う西鶴の態度は翻って色々の暴露記事となるのは当然の成行きであろう。例えば『諸国咄』では義経やその従者の悪口棚卸しに人の臍《へそ》を撚《よ》り、『一代女』には自堕落女のさまざまの暴露があり、『一代男』には美女のあら捜しがある。
このような批判の態度をもって西鶴が当時の武士道の世界を眺めたときに、この特殊な世界が如何に不合理に見えたかということは想像するに難くないのである。由来西鶴の武家物は観察が浅薄であり、要するに彼は武士というものに対する認識を欠いていたというのが従来の定評のようで、これも一応尤もな考え方であると思うが、しかしこれについて多少の疑いがないでもない。『武道伝来記』に列挙された仇討物語のどれを見ても、マテリアリストの眼から見た武士|気質《かたぎ》の不合理と矛盾の忌憚《きたん》なき描写と見られないものはない。
『武家義理物語』の三の一に「すこしの鞘《さや》とがめなどいひつのり、無用の喧嘩を取むすび、或は相手を切りふせ、首尾よく立のくを、侍の本意のやうに沙汰せしが、是ひとつと道ならず。子細は、其主人、自然の役に立《たて》ぬべしために、其身相応の知行《ちぎょう》をあたへ置れしに、此恩は外にないし、自分の事に、身を捨るは、天理にそむく大悪人、いか程の手柄すればとて、是を高名とはいひ難し」とはっきりした言葉で本末の取りちがえを非難している。してみると、これらの武家物は決してかくのごとき末世的武士道を礼讃し奨励するつもりではなく、反対にその馬鹿らしさを強調し諷諌するような心持が多分にあったのではないかとも想像される。しかしまた、西鶴のような頭のいい観察者が、真の武士道の中の美点をも認めることが出来なかったとは想像されない。そうした例も実際捜せばところどころには散在するのである。
それはいずれにしても、武士道というものに対しても西鶴が独自の見解をもっていて、その不合理と矛盾から起る弊害を指摘する心持があったであろうという想像は、マテリアリストとしての彼の全体から判断し推測してそれほど無稽なものではないと思われるのである。
恋愛に関する西鶴の考えにもかなり独自なものがあり、伝統的な性の道徳に批判的の眼を向けていたように思われる。その一例とも見られるのは、『諸国咄』の中の「忍び扇の長歌《ながうた》」に、ある高貴な姫君と身分の低い男との恋愛事件が暴露して男は即座に成敗され、姫には自害を勧めると、姫は断然その勧告をはねつけて一流の「不義論」を陳述したという話がある。その姫の言葉は「我《われ》命をおしむにはあらねども、身の上に不義はなし。人間と生を請て、女の男只一人持事、是作法也。あの者|下/″\《したじた》をおもふは是縁の道也。おの/\世の不義といふ事をしらずや。夫ある女の、外に男を思ひ、または死別れて、後夫《ごふ》を求るとて、不義とは申べし。男なき女の、一生に一人の男を、不義とは申されまじ。また下/″\を取あげ、縁をくみし事は、むかしよりためし有。我すこしも不義にはあらず、云々」というのである。現代ならかなり保守的な女学者でも云いそうなことであるが、ともかくもこれは西鶴自身の一種の自由恋愛論を姫君の口を借りて言明したものであることには疑いは無いであろう。それは当代にあってはずいぶんラジカルな意見であろうと思われる。
彼の好色物に現われた性生活の諸相の精細な描写記録は、この人間界の最も深刻な事実を事実として客観的に集輯したものであるには相違ないが、彼がそういうものを著述する際における彼の態度が、果して動物の観察者が動物の生活を記載する場合と同じものであったかどうかは疑問である。勿論、大衆読者というものを意識していることは云うまでもないことであるが、しかし、もしも彼の中に伝統的な恋愛道徳観が強烈に活きてはたらいていたら、こういう、当時としては破天荒なものを書く気にはなれなかったであろうと想像される。そういう方向から見ると、西鶴は当代としては非常に飛び離れた性道徳観の信奉者であったと思われないこともない。少なくも、恋愛の世界を勧善懲悪の縄張りから解放すべきものと考えていたのではないかと思われるふしが少なくないのである。
これらの武士道観、恋愛観は、ある意味からともかくも唯物論的な西鶴の立場を窺わせる窓口となるものでないかと思われる。
『永代蔵』中に紹介された致富の妙薬「長者丸」の処方、『織留』の中に披露された「長寿法」の講習にも、その他到る処に彼一流の唯物論的処世観といったようなものが織り込まれている。
これらは、西鶴一流とは云うものの、当時の日本人、ことに町人の間に瀰漫《びまん》していて、しかも意識されてはいなかった潜在思想を、西鶴の冷静な科学者的な眼光で観破し摘出し大胆に日光に曝したものと見ることは出来よう。もしもそうでなかったらいかに彼の名文をもってしても、書肆《しょし》の十露盤《そろばん》に大きな狂いを生じたであろうと思われる。
要するに西鶴が冷静|不羈《ふき》な自分自身の眼で事物の真相を洞察し、実証のない存在を蹴飛ばして眼前現存の事実の上に立って世界の縮図を書き上げようとしている点が、ある意味で科学的と云っても大した不都合はないと思われる。
科学者にも色々の型がある。馬琴型の立派な科学者も決して稀ではない。いわゆるアカデミックな学界の権威にはこの型が多い。しかしまた一方で西鶴型の優れた科学者も時に出現し、そうしてそういう学者の中に往々劃期的な大発見、破天荒の大理論を仕遂げる人が生まれるようである。科学全体としての飛躍的な進歩はただ後者によって成さるると云っても過言ではない。
西鶴を生んだ日本に、西鶴型の科学者の出現を望むの
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング