映画における大写し、いわゆるクローズアップの場合である。この技術によって観客の目は対象物の直前に肉薄する。従って顔の小じわの一つ一つ、その筋肉の微細な運動までが異常に郭大される。指先の神経的な微動でもそれが恐ろしくこくめいに強調されて見える。それだから大写しの顔や手は、決して「芝居」をしてはいけないことになっている。それをするといやみで見ていられなくなるのである。
それだのに、頭の悪い監督の作った映画では、ちょんまげのかつらをかぶって、そうして、舞台ですると同じようなグロテスクなメーキャップにいろどった顔を、遠慮なくクローズアップに映写する。そうして、舞台ですると同じような誇張された表情をさせる。これでは観客は全く過度の刺激の負担に堪えられなくなるのである。
巧妙な映画監督は、大写しのなんともない自然な一つの顔を、いわゆるモンタージュによって泣いている顔にも見せ、また笑っているようにも見せる。これはその顔が自然の顔でなんら概念的な感情を表現していないからこそ可能になるわけである。同じことは能楽の面の顔についても人形芝居の人形の顔についてもいわれる、これらの顔は泣いているともつかず怒っているともまた笑っているともつかぬ顔である。しかしまたそれだから、大いに泣き、大いに怒りまた笑った顔となりうる潜在能をもった顔である。
それで、巧妙な音楽と人形使いの技術との適当なモンタージュによって、同一の顔がたちまちにして大いに笑い、たちまちにしてまた大いに泣くのである。こういう芸術を徳川時代の民間の卑賤《ひせん》な芸人どもはちゃんと心得ていたわけである。
生まれてはじめて見た人形芝居一夕のアドヴェンチュアのあとでのこれらの感想のくどくどしい言葉は、結局十歳の亀《かめ》さんや、試写会における児童の端的で明晰《めいせき》なリマークに及ばざることはなはだ遠いようである。文楽や歌舞伎《かぶき》に精通した一部の読者の叱責《しっせき》あるいは微笑を買うであろうという、一種のうしろめたさを感じないわけにはゆかない。
自分が文楽を見たころにちょうどチャップリンが東京に来ていた。だれかきっとチャップリンを文楽へ案内するだろうと予期していたが、とうとう一度も見には行かなかったようである。この頭のいい映画監督は、この文楽の人形芸術のうちから、必ず何物かを拾いあげて自分の芸術に利用したのではなかったかと想像される。
もっとも、文楽をいくらかでも理解するためには、義太夫《ぎだゆう》のわかるということが必要条件であって、義太夫を取り除いた文楽の人形芝居は意味を成さない。そうして、結城孫三郎《ゆうきまごさぶろう》やダークのマリオネット、ないしはギニョールのパンチとジュデーなどに対する独特の地位を全然喪失してしまうことは明白である。従って、チャンバレーンにも、メートル、ペリーにも、クーシューにもわからなかったこの東洋日本特産芸術が、チャップリンに完全にのみ込めようとは思われないのであるが、しかし、西洋のあらゆる芸術のうちで、文楽の人形芝居にもっとも近いものは、おそらく近ごろの芸術的映画、ことに発声映画ではないかと思われるから、その点から推して、名監督としてのチャップリンにいくぶんの期待をかけてもはなはだしい見当ちがいではないかと思われる。実際チャップリンの無声映画に現われる一つのタイプとしてのチャーリーは、あれはたしかに一つの人形であるからである。
チャップリンよりもあるいはむしろロシアのエイゼンシュテインに文楽を見せて、そうして彼の理論に立脚した文楽論を聞く事ができたらさだめておもしろいことであろうと想像される、彼はおそらく左団次《さだんじ》の修禅寺物語《しゅぜんじものがたり》よりは数層倍多くの暗示と示唆を発見するであろう。かの国の「語りもの」に似ているといわれる義太夫《ぎだゆう》も、おそらく他のヨーロッパ人に比べては、いくらかよりよくロシア人に理解される可能性がありはしないか。
しかし、結局、文楽や俳諧《はいかい》のようなものは、西洋人には立ち入ることのできない別の世界の宝石であろう。そうして、西洋の芸術理論家は、こういうものの存在を拒絶した城郭にたてこもって、その城郭の中だけに通用する芸術論を構成し祖述し、それが東洋に舶来し、しかも誤訳されたりして宣伝されることもあるであろう。
四十年前の田舎《いなか》の亀《かめ》さんはやはりいちばんオリジナルな芸術批評家であったかもしれない。
[#地から3字上げ](昭和七年六月、東京朝日新聞)
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この記事が東京朝日新聞に出たのを見た滝野川《たきのがわ》の伊達《だて》氏が、わざわざ手紙をよこして、チャップリンの文楽見物の事実を知らせてくれた。最終日に「良弁杉《りょうべんすぎ》の由来《ゆらい》」の一部分を見て、夕飯後|明治座《めいじざ》へ行ったそうである。
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底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第64刷発行
※作品末の一節は、随筆集「蒸発皿」(1933(昭和8)年)刊行にあたって、追記されたものです。
※本文中の「良弁杉」は、芝居の題名としては「ろうべんすぎ」と読むのが一般的ですが、ルビは底本どおり「りょうべんすぎ」としました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
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