ったかと想像される。
 もっとも、文楽をいくらかでも理解するためには、義太夫《ぎだゆう》のわかるということが必要条件であって、義太夫を取り除いた文楽の人形芝居は意味を成さない。そうして、結城孫三郎《ゆうきまごさぶろう》やダークのマリオネット、ないしはギニョールのパンチとジュデーなどに対する独特の地位を全然喪失してしまうことは明白である。従って、チャンバレーンにも、メートル、ペリーにも、クーシューにもわからなかったこの東洋日本特産芸術が、チャップリンに完全にのみ込めようとは思われないのであるが、しかし、西洋のあらゆる芸術のうちで、文楽の人形芝居にもっとも近いものは、おそらく近ごろの芸術的映画、ことに発声映画ではないかと思われるから、その点から推して、名監督としてのチャップリンにいくぶんの期待をかけてもはなはだしい見当ちがいではないかと思われる。実際チャップリンの無声映画に現われる一つのタイプとしてのチャーリーは、あれはたしかに一つの人形であるからである。
 チャップリンよりもあるいはむしろロシアのエイゼンシュテインに文楽を見せて、そうして彼の理論に立脚した文楽論を聞く事ができたらさだめておもしろいことであろうと想像される、彼はおそらく左団次《さだんじ》の修禅寺物語《しゅぜんじものがたり》よりは数層倍多くの暗示と示唆を発見するであろう。かの国の「語りもの」に似ているといわれる義太夫《ぎだゆう》も、おそらく他のヨーロッパ人に比べては、いくらかよりよくロシア人に理解される可能性がありはしないか。
 しかし、結局、文楽や俳諧《はいかい》のようなものは、西洋人には立ち入ることのできない別の世界の宝石であろう。そうして、西洋の芸術理論家は、こういうものの存在を拒絶した城郭にたてこもって、その城郭の中だけに通用する芸術論を構成し祖述し、それが東洋に舶来し、しかも誤訳されたりして宣伝されることもあるであろう。
 四十年前の田舎《いなか》の亀《かめ》さんはやはりいちばんオリジナルな芸術批評家であったかもしれない。
[#地から3字上げ](昭和七年六月、東京朝日新聞)
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 この記事が東京朝日新聞に出たのを見た滝野川《たきのがわ》の伊達《だて》氏が、わざわざ手紙をよこして、チャップリンの文楽見物の事実を知らせてくれた。最終日に「良弁杉《りょうべんすぎ》の由来《ゆらい》」
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