に代わるべき動作の言語がちゃんと備わっているのである。
数学では最初に若干の公理前提を置いて、あとは論理に従って前提の中に含まれているものを分析し、分析したものを組み立ててゆくのであるが、われわれの言語によって考えを運んでゆく過程もかなりこれと似たところがある。もちろん、数学の公理や論理はきわめて簡単明瞭であり、使用される概念も明確に制定されているに反して、言語による思考の場合では、これらのすべてのものが複雑に多義的であるから、一見同様な前提から多種多様な結論が生まれ出るように見える。しかし実際の場合に前提の数が非常に多いから全く同一な前提群から出発するという事は実はあり得ないのである。
それでも、二人の人間が長く共同的に生活している場合には二人の考え方が似てくる。親しい友だちどうしで道を歩いていると、二人が同時に同じ事を考える事がある。縁側で日向《ひなた》ぼっこをしている二匹のねこがどうかすると全く同じ挙動をすると同じかもしれない。してみると人間の考え方にも一定の公式のようなものがあるかもしれない。その公式からひどく離れるとばかか気違いか天才になるのかもしれない。
こんな空想はどうでもよい事にして、平凡な実際問題として見た時にも、数学の学習と語学の学習とは方法の上でかなり似通《にかよ》った要訣《ようけつ》があるようである。
語学を修得するにまず単語を覚え文法を覚えなければならない。しかしただそれを一通り理解し暗記しただけでは自分で話す事もできなければ文章も書けない。長い修練によってそれをすっかり体得した上で、始めて自分自身の考えを運ぶ道具にする事ができる。
数学でも、ただ教科書や講義のノートにある事がらを全部理解しただけではなかなか自分の用には立たない。やはりいろいろな符号の意味をすっかり徹底的にのみ込む事はもちろん、またいろいろな公式をかなりの程度まで暗記して、一度わがものにしてしまわなければ実際の計算は困難である。
それで語学も数学もその修得は一気呵成《いっきかせい》にはできない。平たくいえば、飽きずに急がずに長く時間をかける事が、少なくとも「必要条件」の一つである。
ただしこれだけでは「充分なる条件」ではない。いくら単語をたくさん覚え、文法をそらんじてもよい文章は書けないと同様に、いくら数学に習熟してもそれで立派なオリジナルな論文が書けるとは限
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