の話は、柳家小《やなぎやこ》さんの落語のごとく、クライスラーのクロイツェルソナタのごとく実に何度となく同じ聴衆の前に繰返されて、そうしてその度ごとに新しくその聴衆を喜ばしたものである。繰返せば繰返すにつれてますますその面白味の深さを加えたものである。この点では論語や聖書も同じことであるのみならず、こういう郷土的色彩の濃厚な怪談やおどけ話の奧の方にはわれらとは切っても切れない祖先の生活や思想で彩られた背景がはっきりと眺められるのであるから、こういう話を繰返し聞かされている間にわれわれの五体の幾億万の細胞の中に潜んでいる祖先の魂が一つ一つ次第次第に呼び覚されて来るのであった。中学時代になってからやっとイソップやグリムやアンデルセンにめぐり合って日本の外に他の世界があること、そこにはわれらとはよほどちがった生活と思想のあることを教えられたのであった。今の子供はコスモポリタンなお伽噺の洪水の波に押流されているようなものである。もしも今の少青年に民族的な精神が欠乏しているとすればその原因の一つとしては西洋お伽噺の食傷も数えられなければならないかもしれない。
 重兵衛さんは性的な問題を取扱った話はほとんどしなかったようである。姉の家で普請をしていた時に、田舎から呼寄せられて離屋《はなれ》に宿泊していた大工の杢《もく》さんからも色々の話を聞かされたがこれにはずいぶん露骨な性的描写が入交《いりま》じっていたが、重兵衛さんの場合には、聴衆の大部分が自分の子供であったためにそういう材料はことさらに用心して避けたものと思われる。
 とにかく重兵衛さんの晩酌の肴《さかな》に聞かしてくれた色々の怪談や笑話の中には、学校教育の中には全く含まれていない要素を含んでいた。そうしてこの要素を自分の柔らかい頭に植えつけてくれた重兵衛さんに、やはり相当の感謝を捧げなければならないように思う。重兵衛さんは自分の心にファンタジーの翼を授け、自分の現実世界の可能性の牢獄を爆破してくれた人であった。
 重兵衛さんの次男で自分よりは一つ二つ年上の亀さんからも実に色々のことを教わった。彼はたしかに一種の天才であったらしい。何をさせても器用であって、彼の作った紙鳶《たこ》は風の弱い時でも実によく揚りそうして強風にも安定であった。一緒に公園の茂みの中にわな[#「わな」に傍点]をかけに行っても彼のかけた係蹄《わな》にはき
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