合わせて考えてみるといいようである。
 以上にあげた特殊な「笑い」の実例を見ると、いずれも精神ならびに肉体に一種の緊張を感じるべき場合である。もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力が無意識の間に断続する。たとえばやっと歩き始めた子ねこが、足を踏みしめて立とうとする時に全身がゆらゆら揺れ動くのもこれと似たところがある。そういう断続的の緊張|弛緩《しかん》の交代が、生理的に「笑い」の現象と密接な類似をもっている。従って笑いによく似た心持ちを誘発し、それがほんとうの笑いを引き出す。とこういうような事ではないだろうか。こう思って自分の場合に当たってみるとある程度まではそれでうまく説明ができるように思われる。医者に診《み》てもらって深呼吸をする時などには最も適切に当てはまるし、その他の場合でもあまりたいした無理なしに適用しそうである。
 この仮説が確かめられる時は、自分の神経の弱さ、腹の弱さ、臆病《おくびょう》さの確かめられる時であるというのはきわまりなく不愉快な恥ずかしい事である。しかし同時にその弱さの素因がいくらか科学的につきとめられて従ってその療法の見当がつくとすれば、それはまたこの上もない心強い喜ばしい事である。
 実際自分のようなものでも、健康のぐあいがよくて精力の満ちているような場合に、このような変則な笑いの出現する事はまれであって、病後あるいは精神過労の後に最も顕著な事から考えてもこの仮説は少なくともよほど見込みがありそうである。

 このような考えから出発して一般の笑いの現象を研究してみたらどうかという事は自然に起こる次の問題である。
 狂人やヒステリー患者の病的な笑いはどうであろう。これは第一自分の経験もないし、また観察すべき材料も手近にないからよくはわからないが、たとえば女のからだのある変化に随伴して起こりがちなヒステリーなどは、鬱積《うっせき》した活力が充分に発現されないために起こる病的現象だとすると、前の仮説の領域から全く離れたものとは思われない。
 しかしそれはしばらくおいて、もう少し正常《ノルマル》な健全な笑いを考えてみる。
 そういう笑いの中で最も純粋で原始的だと言われるのは、野蛮人でも文明人でも子供でもおとなでも共通に笑うような笑いでなければならない。野蛮人がいかなる事を笑うかという事が知りたいのであるがこれはちょっと参考すべき材料を持ち合わせない。やむを得ず子供の場合を考えてみた。子供の笑いの中で典型的だと思うのは、第一に何かしら意外な、しかしそれほど恐ろしくはない重大ではない事がらが突発して、それに対する軽い驚愕《きょうがく》が消え去ろうとする時に起こるものである。たとえば人形の首が脱け落ちたり風船玉のようなものが思いがけなく破裂したり、棚《たな》のものが落ちて来たりした時のがその例である。第二にこれと密接に連関しているのは出来事に対する大きな予期が小さな実現によって裏切られた時の笑いである。ビックリ箱をあけてもお化けが破損していて出なかったり、花火ができそこなってプスプスに終わったとかいうのがそれである。この二つは世態人情に関する予備知識なしに可能なものであって、それだけ本能的原始的なものと考えられるが、この二つともにともかくも精神ならびに肉体の一時的[#「一時的」に傍点]あるいは持続的[#「持続的」に傍点]の緊張が急に[#「急に」に傍点]弛緩《しかん》する際に起こるものと言っていい。そうして子細に考えてみると緊張に次ぐ弛緩の後にその余波のような次第に消え行く弛張《しちょう》の交錯が伴なうように思われる。しかし弛緩がきわめて徐々に来る場合はどうもそうでないようである。
 惰性をもったものがその正常の位置から引き退けられて、離たれた時に、これをその正常の位置に引きもどさんとする力が働けば振動の起こるというのは物質界にはきわめて普通な現象である。そして多くの場合においてその惰性は恒同であり、弾力は変位《ディスプレースメント》に正比例するから運動の方程式は簡単である。しかしこの類型を神経の作用にまでも持って行こうとすると非常な困難がある。かりにあるもの[#「もの」に傍点]の変位がプラスであれば緊張、マイナスであれば弛緩の状態を表わすとしたところで、その「もの」がなんだかわからなければその質量に相当するものも、弾力に相当するものもわかりようはない。従ってこれが数学的の取り扱いを許されるまでにはあまりに大きな空隙《くうげき》がある。
 それにもかかわらず笑いの現象を生理的また心理的に考える時にこの力学の類型《アナロジー》が非常に力強い暗示をもって私の想像に訴えて来る。そうして生理と心理の間のかけ橋がまさにこの問題につながっていそうに思われてならない。
 これを一つの working hypothesis として見た時には、そこからいろいろな蓋然的《がいぜんてき》な結果が演繹《えんえき》される。たとえば笑いやすい人と笑いにくい人などの区別が、力学の場合の「粘性」や「摩擦」に相当する生理的因子の存在を思わせる。粘液質などという言葉が何かの啓示のように耳にひびく。あるいは笑いの断続の「週期」と体質や気質との関係を考えさせられる。またかりに「笑い」が人類に特有な現象だとすれば、他の動物では質量弾力摩擦の配合が週期運動の条件を満足させないために振動が無週期的 aperiodic になるのではないかという疑いも起こる。

 子供の笑いと子供にはわからないおとなの笑いとの間には連続的な段階がある。(A)尊厳がそこなわれた時の笑い、(B)人間の弱点があばかれた時の笑いなどは必ずしもこれを悪意な Schadenfreude とばかりは言われない。ここにもある緊張のゆるみが関係してくる。
(C)望みが遂げられた時の喜びの笑い、これも無理なしにここの仮説の圏内にはいる。
 少しむつかしくなるのは、(D)得意な時の自慢笑い、(E)軽侮した時の冷笑などである。しかし(D)には(A)と(C)の混合があり、(E)には(B)や(D)の錯雑がある。
(F)苦笑というのがある。これは自分を第三者として見た時の(A)と(B)とが自分を自分とした時の苦痛と混合したものででもあろうか。
 こんなふうにしてもっといろいろな種類の笑いがLMN……というぐあいに導き出されそうに思われる。しかしこのような問題はもう純粋な心理の問題になって肉体との縁が遠くなる。これは自分のここに言おうとする事ではなかった。

 この「仮説」はただ自分の奇妙な「笑い」に対する少年時代からの疑いを解くために考えたものである。この考えの普遍性を主張しようとしているわけでは決してない。しかしそれが少なくも多数の人に普遍なものを含んでいなければ私はやはり安心ができない。
 物事を系統化する事の好きな人はその系統にはいらない事実に盲目になりがちなものである。私の現在の場合にもそんな傾向がないという事は断言できない。それでこれはまだまだ充分に考えてみなければどうなるかわからないが、しかしよく研究してみたらいくらか物になりそうな見込みはある。
 読者の内にもし専門の学者があらばその人はこの私の素人《しろうと》考えを正してくれるかもしれない。もしまた素人で同じ経験を持っている人があらば、その人は同じ問題の追求に加勢してくれるかもしれない。このような考えから、私はこの懺悔《ざんげ》とも論文ともつかないものを書いてしまった。この全編の内容が一般の読者の「笑い」の対象になっても、それはやむを得ないのである。
(付記) この稿をだいたい書いてしまって後に、ベルグソンの「笑い」という書物が手に入って読んでみた。なるほどおもしろい本である。この書の著者は、笑いにはすべて対象があるものと考えていて、対象のない笑いには触れていない。そしてその対象は直接間接に人間的なものと考え、顔や挙動や境遇や性格やの滑稽《こっけい》になるための条件公式あるいは規約のようなものをいくつも、科学的に言えばかなり大胆に持ち出してはそれを実例と対照させ説明している。それを基礎として喜劇というものが悲劇ならびに一般芸術に対してもつ特異の点を論じたり、笑いの社会道徳的意義を目的論的な立場で論じたりしている。
 読んでいるうちにいろいろ有益な暗示も受けるし、著者の説に対する一二の疑いも起こった。しかしこれを読んだために私がここに書いた事の一部を取り消したり変更する必要は起こらなかった。私の問題は「対象なき笑い」から出発して、笑いの生理と心理の中間に潜むかぎを捜そうとするのであるが、ベルグソンはすっかり生理を離れて純粋な心理だけの問題を考えているのである。
 ベルグソンの与えている種々な笑いの場合で私のいわゆる「仮説」とどうしても矛盾するようなものはなくて、むしろこれに都合のいい場合がかなりにあった。そしてこの書の終わりに近くなって笑いと精神的の弛緩《しかん》との関係に少しばかり触れている一節があるのを見いだして多少の安心を感じる事ができた。
 これらの読後の感想についてはしるしたい事がいろいろあるが、この稿とは融合しない性質のものだから、それは別の機会に譲る事にした。
[#地から3字上げ](大正十一年一月、思想)



底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
   1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング