ければどうなるかわからないが、しかしよく研究してみたらいくらか物になりそうな見込みはある。
読者の内にもし専門の学者があらばその人はこの私の素人《しろうと》考えを正してくれるかもしれない。もしまた素人で同じ経験を持っている人があらば、その人は同じ問題の追求に加勢してくれるかもしれない。このような考えから、私はこの懺悔《ざんげ》とも論文ともつかないものを書いてしまった。この全編の内容が一般の読者の「笑い」の対象になっても、それはやむを得ないのである。
(付記) この稿をだいたい書いてしまって後に、ベルグソンの「笑い」という書物が手に入って読んでみた。なるほどおもしろい本である。この書の著者は、笑いにはすべて対象があるものと考えていて、対象のない笑いには触れていない。そしてその対象は直接間接に人間的なものと考え、顔や挙動や境遇や性格やの滑稽《こっけい》になるための条件公式あるいは規約のようなものをいくつも、科学的に言えばかなり大胆に持ち出してはそれを実例と対照させ説明している。それを基礎として喜劇というものが悲劇ならびに一般芸術に対してもつ特異の点を論じたり、笑いの社会道徳的意義を目的論的な立場で論じたりしている。
読んでいるうちにいろいろ有益な暗示も受けるし、著者の説に対する一二の疑いも起こった。しかしこれを読んだために私がここに書いた事の一部を取り消したり変更する必要は起こらなかった。私の問題は「対象なき笑い」から出発して、笑いの生理と心理の中間に潜むかぎを捜そうとするのであるが、ベルグソンはすっかり生理を離れて純粋な心理だけの問題を考えているのである。
ベルグソンの与えている種々な笑いの場合で私のいわゆる「仮説」とどうしても矛盾するようなものはなくて、むしろこれに都合のいい場合がかなりにあった。そしてこの書の終わりに近くなって笑いと精神的の弛緩《しかん》との関係に少しばかり触れている一節があるのを見いだして多少の安心を感じる事ができた。
これらの読後の感想についてはしるしたい事がいろいろあるが、この稿とは融合しない性質のものだから、それは別の機会に譲る事にした。
[#地から3字上げ](大正十一年一月、思想)
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10
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