笑い
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)漠然《ばくぜん》とした記憶

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例) |弱い神経《ウィークナーヴ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どこかおなか[#「おなか」に傍点]に
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 子供の時分から病弱であった私は、物心がついてから以来ほとんど医者にかかり通しにかかっていたような漠然《ばくぜん》とした記憶がある。幸いに命を取り止めて来た今日でもやはり断えず何かしら病気をもっていない時はないように思われる。簡単なラテン語の名前のつくような病気にはかかっていない時でも、なんとなしに自分のからだをやっかいな荷物に感じない日はまれである。ただ習慣のおかげでそれのはっきりした自覚を引きずり歩かないというだけである。それで自分は、ちょうど色盲の人に赤緑の色の観念が欠けているように、健康なからだに普通な安易な心持ちを思料する事ができないのではないかと思う事もある。もっとも健康な人は、そういういい心持ちが常態であってみれば、病後ででもない限りやはりそれを安易とも幸福とも自覚しないだろう。すると結局日常生活の仕事の上には、自分のようなものも健全な人も、からだの自覚から受ける影響はたいしたものではないかもしれないが、しかしこれほど根本的な肉体的の差別がどこかに発露しないはずはない。
 それで、これから告白しようとする私の奇妙な経験がどこまで正常《ノルマル》な健康を保有している幸福な人たちに共通で、どこからが私のようなものに限っての病的な現象に連関しているかは、遺憾ながら私自身にもよくわからない。この一編を書くようになった動機はむしろこの点に対する私の不可解な疑念であると言ってもいい。

 私は子供の時分から、医者の診察を受けている場合にきっと笑いたくなるという妙な癖がある。この癖は大きくなってもなかなか直らなくて、今でもその痕跡《こんせき》だけはまだ残っている。
 病気といっても四十度も熱があったり、あるいはからだのどこかに堪え難い痛みがあったりするような場合はさすがにそんな余裕はないが、病気の自覚症状がそれほど強烈でなくて、起き上がってすわって診察してもらうくらいの時にこの不思議な現象が起こるのである。
 まず医者が脈をおさえて時計を読んでいる時分から、そろそろこの笑
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