ことであろう。
 その夜|星野温泉《ほしのおんせん》へ帰って戸外へ出て空を仰いだら久しぶりで天頂に星がきらきら輝いているのが見えた。T君が今夜は一晩星をねらいながら明かすことであろうと思って寝床にはいった。
 寝ながら、T君の小浅間頂上のテント生活と、近代青年男女の間に流行するいわゆるキャンプ生活との対照を思い浮かべてみた。後者のままごと式の野営生活もたしかに愉快でもありまたいろいろな意味で有益ではあろうが、しかし、前者の体験する三昧《ざんまい》の境地はおそらく王侯といえども味わう機会の少ないものであって、ただ人類の知恵のために重い責任を負うて無我な真剣な努力に精進する人間にのみ恵まれた最大のラキジュリーではないかという気がするのであった。
 そんなことを考えながら、T君の山男のような蓬髪《ほうはつ》としわくちゃによごれやつれた開襟《かいきん》シャツの勇ましいいで立ちを、スマートな近代的ハイカーの颯爽《さっそう》たる風姿と思い比べているうちに、いつか快い眠りに落ちて行ったことであった。
[#地から3字上げ](昭和十年九月、東京朝日新聞)



底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
   1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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