なで「ケタケタ」という妖魔《ようま》の笑い声が飛び出した形に書き添えてあるのが特別の興味を引く。
その他にもたとえば「雪女郎」の絵のあるページの片すみに「マツオ[#「オ」に白丸傍点]オリヒシグ」としるしたり、また「平家蟹《へいけがに》」の絵の横に「カゲノゴトクツキマタ[#「タ」に白丸傍点]ウ」と書いて、あとで「マタ[#「タ」に白丸傍点]ウ」のタ[#「タ」に白丸傍点]を消してト[#「ト」に白丸傍点]に訂正してあったりするのをしみじみ見ていると、当時における八雲氏の家庭生活とか日常の心境とかいうものの一面がありありと想像されるような気がしてくるのである。おそらく夕飯後の静かな時間などに夫人を相手にいろいろのことを質問したりして、その覚え書きのようなつもりで紙片の端に書きとめたのではないかという想像が起こってくる。
「船幽霊」の歌の上に黒猫《くろねこ》が描いてあったり、「離魂病」のところに奇妙な蛾《が》の絵が添えてあったりするのもこの詩人の西欧的な空想と連想の動きの幅員をうかがわせるもののようである。
一雄《かずお》氏の解説も職業文人くさくない一種の自由さがあってなかなかおもしろく読まれる。八雲氏令孫の筆を染めたという書名題字もきわめて有効に本書の異彩を添えるものである。
小泉八雲というきわめて独自な詩人と彼の愛したわが日本の国土とを結びつけた不可思議な連鎖のうちには、おそらくわれわれ日本人には容易に理解しにくいような、あるいは到底思いもつかないような、しかしこの人にとってはきわめて必然であったような特殊な観点から来る深い認識があったのではないかと想像される。それを追跡し分析し研究することはわれわれならびに未来の日本人にとってきわめて興味あり有意義であるのはもちろんであるが、そのような研究に意外な光明を投げるような発見の糸口があるいはかえってこうした草稿の断片の中に見いだされないとも限らないであろう。
たとえば「怪談」の中にも現われまたこの百物語の数々の化け物の中から特に選び出される光栄をもったような化け物どもが、どういう種類の化け物であって、そのいかなる点がこの人にアッピールしたか、またそれがどういう点で過去数千年の日本民族の精神生活と密接につながっているか。こんな事を考えてみるだけでもそこにいろいろなまじめな興味ある問題を示唆されるのであるが、その示唆の呪法《じゅほう》の霊験がこの肉筆の草稿からわれわれの受けるなまなましい実感によっていっそう著しく強められるであろうと思われるのである。
[#地から1字上げ](昭和九年十月、帝国大学新聞)
底本:「寺田寅彦全集 第十七巻」岩波書店
1962(昭和37)年2月7日第1刷発行
入力:加藤恭子
校正:かとうかおり
2003年3月6日作成
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