きながらはいって来て、着物をきかえ床へはいってもまだしくしく泣いていた。どうしたかと聞いてみても何も云わないし、外のものにも何故だか分らなかった。
 銀座を歩いて夜店をひやかしているうちに冬子が「どうして早く銀座へ行かないの」と何遍も聞いたそうである。ここが銀座だと説明しても分らなかった。どうも銀座というのはアイスクリームのある家の事と思っていたらしいという事である。宅の門までは元気よく帰って来たのが、どうしたか門をはいると泣き出したそうである。
 私は「珍しく繁華な街へ行ったから疳《かん》でも起ったのだろう」と云った。私がこれを云うと同時に冬子は急に泣き止めた。そして何か考えてでもいるような風であったが間もなくすやすや寝入ってしまった。[#地から1字上げ](大正九年十一月『中央公論』)



底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
   1997(平成9)年1月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2005年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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