いねい》に礼を云ってから、とぼとぼと片足を引きずりながら出て行くのであった。
「どうぞ、御からだを御大事に」と云ったこの男の一言が、不思議に私の心に強く滲み透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に喰い入ったのであろうか。乞食《こじき》の眼や声はかなり哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。
 嗄《しゃが》れた声に力を入れて、絞り出すように云った「どうぞ」という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片隅のどこかが急に柔らかくなるような気がした。そしてもう一度彼を呼び返して、何かもう少しくれてやりたいような気さえした。
 黙って乞食の挙動を見ていた子供等は、彼が帰ってしまうと、額のきずや、片手のない事などを小声でひそひそと話し合っていたが、間もなく、それぞれの仕事や遊びに気を奪われてしまったようである。子供等の受けた印象は知る事は出来ない。
 乞食は私の病気の事などはもとより知っているはずはなかった。おそらく彼は誰の前にも繰返すお定まりの言詞を繰返したに過ぎないだろう。ただそれがQの冷罵《れいば》とペルゴレシの音楽とのすぐ後に出くわしたばかりに、偶然自分の子供らしいイーゴチズムに迎合したのかもしれない。
 しかし私が彼の帰って行く後姿を見た時に突然|閃《ひらめ》いた感傷的な心持の中には、後から考えるとかなり色々なものが含まれていたようである。例えば自分があの乞食であって門から門へと貰って歩くとする。どこの玄関や勝手口でも疑いと軽侮の眼で睨《にら》まれ追われる。その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒《だんらん》があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはしないだろうか。少なくともこの時のこの男はそんな心持がしたのではないかという気がする。彼の顔の表情には私がこれまで見たあらゆる乞食に見られない柔らかく温かいある物があった。
 彼はそれきり来ない。もう一度来ないかしらとも思うが、やはりもう来てくれない方がいい。

      三 簑虫

 八月のある日、空は鼠色に曇って雨気を帯びた風の涼しい昼過ぎであった。私は二階の机に凭《もた》れてK君に端書《はがき》を書いていた。端書の面の五分の四くらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、しばらくぼんやり、縁側の手欄《てすり》越しに庭の楓樹《かえで》の梢を眺めていた。すると私のすぐ眼の前に突き出ている小枝に簑虫《みのむし》のぶら下がっているのが眼に付いた。それはこの虫としてはかなり大きいものであった。よく見ると簑は主に紅葉《もみじ》の葉の切れはしや葉柄《ようへい》を綴《つづ》り集めたものらしかったが、その中に一本図抜けて長い小枝が交じっていて、その先の方は簑の尾の尖端から下へ一|寸《すん》ほども突き出て不恰好に反りかえっていた。それがこの奇妙な紡錘体の把柄《とって》とでも云いたいような恰好をしているのであった。枝に取り付いている上端は眼に見えないほど小さい糸になっているので、風の吹く度に簑はさまざまに複雑な振子運動をし、また垂直な軸のまわりに廻転もしていた。今にも落ちそうに見えるが実はなかなかしっかりしているのであった。簑虫自身は眠っているのか、あるいは死んでいるのか、ともかくもこの干《ひ》からびた簑を透して中に隠れた生命の断片を想像するのは困難なように思われた。それで私は今書きかけた端書のさきへこんな事を書き加えた。
「今僕の眼の前の紅葉の枝に簑虫が一匹いる。僕は蟻や蜂や毛虫や大概の虫についてその心持と云ったようなものを想像する事が出来ると思うが、この簑虫の心持だけはどうしても分らない。」
 これだけで端書の余白はもうなくなってしまったが、これが端緒になって私はこの虫について色々の事を考えたり想像したりした。
 昔の学者などの中にはほとんど年中、あるいは生涯貧しい薄暗い家の中に引き籠ったきりで深い思索や瞑想に耽っていたような人もあったらしい。こんな人達はすぐ隣に住んでいるゴシップ等の眼にはあるいはちょうどこの簑虫のように気の知れない、また存在の朧気《おぼろげ》なものとしか見えなかったかもしれない。現世とはただわずかな糸でつながって、飄々《ひょうひょう》として風に吹かれているような趣があったかもしれない。ただ簑虫とちがうのは、幾年かの後に思索研究の結果を発表して、急にあるいは徐々に世間を驚かした事である。しかし中には纏《まと》まった結果を得なかったり、また得てもそれを発表しないで死んでしまった者も沢山あるかもしれない。そんな人は脇目にはこの簑虫と変ったところはなかったかもしれない。
 こんな空想に耽《ふけ》りながら見ていると、簑の上に隙間なく並んでいる葉柄の切片が、なんだかこの隠れた小哲学者の書棚に背皮を並べた書物ででもあるような気がした。
 この簑について思い出すのは、私が子供の時分に、母か誰かに教わったままに、簑虫の裸にしたのを細かに刻んだ色々の布片と一緒にマッチの空箱の中に入れて、五色の簑を作らせようとした事である。この試験の結果は熱心な期待を裏切って、虫は死んでしまった。それにもかかわらず、美しい五彩の簑を纏うた虫の心象《イメージ》だけは今も頭の中に呼び出す事が出来る。ところが、つい近頃私の子供等がやはり祖母にこの話を聞いて私の失敗した経験を繰返していたようである。いったいこの話は事実であろうか。事実であるとしても稀有《けう》な事であるか、それとも普通な事であろうか。私の母自身にも実際自分で経験したのではないかもしれないが、つい今までそれを確かめてはみなかった。また別に今すぐ確かめようとも思っていない。そういう種類の事が容易《たやす》くたしかめられようとは思わないからである。
 こんな事からつぎつぎに空想をたどりながら、私は人間のあらゆる知識に関するいわゆるオーソリティというものの価値に考え及んだ。そして考えれば考えるほど、今まで安心だとばかり思っていた色々の知識の根柢が、脚元からぐらついて来るような気がした。しかしその時考えた事はここに書くにはあまりに複雑でそしてデリケートな、そして纏りのつきかねるものであった。
 このような事を考えた翌日の同じ時刻に私は例のように二階の机の前に坐った。そして昨日の簑虫はと思っておおよそこの辺かと思う見当を捜してみたが見付からない。そのうちにずっと高いところの大きな枝に何か動くものがあると思ってよく見ると、それが昨日のあの把柄のついた簑虫であった。ただ意外な事には、昨日生死も分らないように静まり返っていたあの小哲学者とは思われないように活動しているのであった。簑の上端から黒く光った頭が出ていた。それが波を打って動くにつれて紡錘体は一刻みずつ枝の下側に沿うて下りて行った。時々休んで何か捜すような様子をするかと思うとまた急いで下りて行く、とうとう枝の二叉《ふたまた》に別れたところまで来ると、そこから別の枝に移って今度は逆に上の方へ向いて彼の不細工な重そうな簑を引きずり引きずり這って行くのであった。把柄のような長い棒がいかにも邪魔そうに見えた。
 見ているうちにだんだん滑稽な感じがして来てつい笑わないではいられなくなった。そして昨日K君に書いた端書は訂正しなければならないと思った。昨日の哲学者も今日はやっぱり自分の家を荷厄介に引きずりながら、長過ぎて邪魔な把柄をもて扱いながら、あくせくと歩いていた。いったいどういう目的で歩いているのだろうと考えてみたが、たぶんやはり食うためだろうとしか思われなかった。
 その日の夕方思い付いて字引でみのむし[#「みのむし」に傍点]というのを引いてみると、この虫の別名として「木螺《ぼくら》」というのがあった。なるほど這って行く様子はいかにも田螺《たにし》かあるいは寄居虫《やどかり》に似ている。それからまた「避債虫」という字もある。これもなかなか面白いと思った。それから手近な動物の事をかいた書物を捜したが、この虫の成虫であるべき蝶蛾がどんなものであるか分らなかった。英語では何というかと思って和英辞書を開けてみたが虫の一種とあるばかりで要領を得なかった。いったいこの虫が西洋にも居るだろうか。もし居れば、こんな面白い虫の事だから、ずいぶん色々な人が色々な事をこれについて書いたのがありそうなものだと考えたりした。昆虫学者に会ったら聞いてみたいものだと思っている。
「簑虫鳴く」という俳句の季題があるのを思い出したから、調べついでに歳時記をあけてみると清少納言の『枕草紙』からとして次のような話が引いてある。「簑虫の父親は鬼であった。親に似て恐ろしかろうといって、親のわるい着物を引きかぶせてやり、秋風が吹く頃になったら来るよとだまして逃げて行ったのを、そうとは知らず、秋風を音にきき知って、父よ父よと恋しがって鳴くのだ」というのである。どういうところから出た伝説だか、あるいは才女の空想から生み出された事だか、とにかく現代人の思いも付かないような事を考えたものである。しかしこの清少納言のオーソリティが九百年もそのままに保存されて来たとすると、自然界に対する日本人の知識がいかに長い間平和安穏であったかという事を物語っている。
 その後も二階へ上がる度に気をつけて見ると、簑虫の数は一つや二つではない。大小さまざまのが少なくも七つ八つは居るらしい。長い棒の付いたのはまだ外にも居た。中にはちょうど一本足の案山子《かかし》に似たのもある。あるいは二本の長い棒を横たえた武士のようなのも居る。皆大概はじっとしているが、午頃《ひるごろ》には時々活動しているのを見受ける。彼等にも一定の労働時間や食事の時間があるのかと思ったりした。ある時大きなのがちょうど紅葉の葉を食っているところを見付けたが、頭をさしのべて高いところの葉を引き曲げ蚕《かいこ》が桑を食うと同じようにして片はしから貪り食うていた。近辺の葉はもうだいぶ喰い荒されているのであった。こんなところを見ているうちに簑虫に対する自分の心持はだんだんに変って来た。そして虫の生活が次第に人間に近く見えて来ると同時に、色々の詩的な幻覚《イリュージョン》は片端から消えて行った。
 M君が来た時に、この話をしたら、M君は笑って、「だいぶ暇だと見えるね」と云った。しかし、M君自身もやはりだいぶ暇だと見えて、この間自分で蟻の巣を底まで掘り返してみた経験を話して聞かせた。

      四 新星

 毎年夏になってそろそろ夕方の風が恋しい頃になると、物置にしまってある竹製の涼み台が中庭へ持ち出される。これが持ち出される日は、私の単調な一年中の生活に一つの著しい区切りを付ける重要な日になっている。もう明日あたりは涼み台を出そうじゃないかという事が誰かの口から云い出される。しかしその翌日が雨であったり、そうでなくても色々の事に紛れたりしてつい一日二日と延びる。そのうちにいよいよ今日はという事になって朝のうちに物置の屋根裏から台が取り下ろされ、一年中の塵埃や黴《かび》が濡れ雑巾で丁寧に拭い清められ、それから裏庭の日蔭で乾かされる。そしていよいよ夕方になってから中庭に持ち出されると、それで始めて私の家に本当に夏が来たという心持になるのである。
 涼み台の外に折り畳み椅子が三つ同時に並べられて一同が中庭へ集まる。まだ明るい宵のうちには縄飛びをする者もあれば、写生帖を出しておばあさんの後姿をかいているのもある。明朝咲く朝顔の莟《つぼみ》を数えて報告するのもある。幼い女児二人は縁側へいろいろなお花を並べて花屋さんごっこをする事もある。暗くなると花火をしたり、お伽噺をしたり、おばあさんに「お国の話」をさせたりしている。幼い子等には、まだ見たことのない父母の郷国が、お伽噺の中の妖精国の
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