今度は趣向を変えて驚かしてやろうというような気はさすがにまだ無かった。
 そのうちにまた「みそさざい」文章号というのが発行された。私が読書している隣りの室で、八重子と宗二とがひそひそ話し合っては、宗二が何か半紙へ書いていると思ったら、それは八重子作の御伽噺を兄が筆記しているのであった。出来上がったのを見ると、ずいぶん色々の文章や歌があった。長男のは感想的のもので姉や弟の絵や文章の傾向が論じてあったりした。八重子の日記にはおやつ[#「おやつ」に傍点]やおかず[#「おかず」に傍点]の事がだいぶ詳しくかいてあった。冬子の「ホシ」と題した歌のようなものがあったが、意味のどうしても分らない全く未来派のようなものであった。
 子供等がこんな事をして割合に仲よく面白く遊んでいるうちに夏休みは容赦もなく経って行った。もう幾つ寝ると学校や幼稚園が始まるかという事が幼い子等によって毎日繰返されるようになった。そう思って見るせいか、子供等の顔にはどこかに倦怠の影がうかがわれた。私は親類や知人の誰彼が避暑先からよこした絵葉書などを見る度に、なんだか子供等にまだなんらかの負債をしているような心持を打消す事が出来なかった。
 ある夕方一同が涼み台と縁側に集まっていろんな話をしている間に、去年みんなである夜銀座へ行ってアイスクリームを食った時の話が出た。それを聞くと八重子と冬子が今年も銀座へ連れて行ってくれと云い出した。実際昨年行ったきりでその後一度も行かなかったのである。
 翌日の夕方は空もよくはれ夕立のおそれも無さそうであるし、風も涼しくて漫歩には適当であったから、妻に五人の子供を連れさして銀座へ遊びにやった。末の二人はどんな好いところへ行くかと思われるように喜んで、そして自分等の好みで学校通いの洋服を着せてもらって、一時間も前から靴をはいて勇んで飛び廻っていた。私はこの二人のむしろ見すぼらしい形ばかりの洋服を見比べているうちに一種の佗しさを感じた。その佗しさはおそらく吾々階級の父親がこのような場合に感ずべき共通のものだろう。
 子供等が出て行った後で私は涼み台で母とただ二人で話していた。座敷の電気もおおかた消してしまったので庭は暗かった。家中が珍しくしんとして表庭の方で虫の音が高く聞えていた。
 十時頃に床へはいって本を読んでいると門の戸が開いて皆がどやどや帰って来た。どうしたのか冬子が泣きながらはいって来て、着物をきかえ床へはいってもまだしくしく泣いていた。どうしたかと聞いてみても何も云わないし、外のものにも何故だか分らなかった。
 銀座を歩いて夜店をひやかしているうちに冬子が「どうして早く銀座へ行かないの」と何遍も聞いたそうである。ここが銀座だと説明しても分らなかった。どうも銀座というのはアイスクリームのある家の事と思っていたらしいという事である。宅の門までは元気よく帰って来たのが、どうしたか門をはいると泣き出したそうである。
 私は「珍しく繁華な街へ行ったから疳《かん》でも起ったのだろう」と云った。私がこれを云うと同時に冬子は急に泣き止めた。そして何か考えてでもいるような風であったが間もなくすやすや寝入ってしまった。[#地から1字上げ](大正九年十一月『中央公論』)



底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
   1997(平成9)年1月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2005年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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