ですがあなたはKさんですか」ちょっとそう云って聞いてみたいような気がした、と同時に、それが自然に何のこだわりもなく云えるまでに到達していない自分を認識することが出来たのであった。
明治座前で停ると少女は果して降りて行く、そのあとから自分も降りながら背後から見ると、束ねた断髪の先端が不揃いに鼠でも齧《かじ》ったような形になっているのが妙に眼について印象に残った。少女は脇目もふらずにゆっくり楽屋口の方へ歩いて行く。やはりそれに相違なかったのである。
開場前四十分ほどだのにもうかなり入場者があった。二階の休憩室には色々な飾り物が所狭く陳列してあって、それに「花○喜○|丈《じょう》」と一々札がつけてある。一座の立役者Hの子供の初舞台の披露があるためらしい。ある一つの大きな台に積上げた品物を何かとよく見るとそれがことごとく石鹸の箱入りであった。
売店で煙草を買っていると、隣の喫茶室で電話をかけている女の声が聞こえる。「猫のオルガン六つですか」と何遍も駄目をおしている。「猫のオルガン」が何のことだか分からないが多分おもちゃのことらしい。何となしこの小春日にふさわしい長閑《のどか》なものの名である。
幕があくと舞台は銀座街頭の場面だそうで、とあるバーの前に似顔絵かきと靴磨き二人と夕刊売りの少女が居る。その少女が先刻のバスの少女であるが、ここでは年齢が急に五つか六つ若くなっている。その靴磨きのルンペンの一人がすなわち休憩室の飾り物を貰った子供の御父さんである。バーは紙の建築で人の出入りはないが表を色々の人通りがある。
役者でも舞台の一方から一方へただ黙って通りぬけるだけの役があるらしい。そんな役であってもやはり舞台へ出る前には何遍も鏡を見て緊張し、すうと十秒くらいの間に舞台を通り抜けてしまうとはじめてほっとして「試験」のすんだのどかさを味わうであろう。自分などの専門の○界における役割もざっとこれに似たもののような気がしてそれらの「通行人、大ぜい」諸君の心持を人事《ひとごと》ならず色々と想像してみるのであった。
そこへコケットのダンサーが一人登場して若い方の靴磨きにいきなり甲高《かんだか》なコケトリーを浴びせかける。本当の銀座の鋪道であんな大声であんな媚態を演じるものがあったら狂女としか思われないであろうが、ここは舞台である。こうしないと芝居にならないものらしい。隣席の奥様がその隣席の御主人に「あれはもと築地《つきじ》に居た女優ですよ。うまいわねえ」と賞讃している。このダンサーは後に昔の情夫に殺されるための役割でこの喜劇に招集されたもので、それが殺されるのはその殺人罪の犯人の嫌疑をこの靴磨きの年とった方、すなわち浅岡了介に背負わせるという目的のために殺されなければならないことになっている。しかも、その嫌疑が造作もなく晴れるようではこの「与太者《よたもの》ユーモレスク、四幕、十一景」は到底引き延ばせるはずがないので、それで、この嫌疑をなるべく濃厚に念入りにするために色々と面倒な複雑なメカニズムが考案されなければならないのである。こういう考案をするのは丁度われわれが何かちょっとした器械でも考案する場合といくらか似たところのある仕事で、面倒でもありまたそれだけに面白くもあるであろうと想像される。ちょっとした考えの穴があると動くはずの器械が動かないのである。
靴磨きにアパートにおける殺人の嫌疑をかけるためには殺されるダンサーのアパートにその靴磨きをなんとかしておびき入れ、そうしてアパートにおける彼等の姿を確実に目撃した証人をこしらえておく必要がある。それでその手順の第一として先ず街上でダンサーに若い方の靴磨き田代公吉へモーションをかけさせ、アパートへ遊びに来ないかと招待させる。それをすぐオーケーとばかりに承諾しては田代公吉が阿呆《あほう》になるからそれは断然拒絶して夕刊娘美代子の前に男を上げさせる。この夕刊売りの娘を後に最後の瞬間において靴磨きのために最有利な証人として出現させるために序幕からその糸口をこしらえておかなければならないので、そのために娘の父を舞台の彼方で喘息《ぜんそく》のために苦悶させ、それに同情して靴磨きがたった今、ダンサーから貰った五円を医薬の料にやろうというのをこの娘の可憐な一種の嫉妬をかりていったん謝絶させておく。そうしておいてから、田代公吉を縄張問題から同業の暴漢になぐらせ負傷させ卒倒させておいてそこへ前のダンサーを通りかからせ、そうして目的のアパートへ連れて行かせる。そこでダンサーに身の上話をさせることによって悪漢騎手の旧情夫の存在を観客に呑込ませる。そうして後に不利な証拠物件を提供するためにダンサーの指環を靴磨きに贈らせ、靴磨きの金鎚をその部屋に遺却させる。彼等のアパートにおける目撃者としてアパートの掃除婦を役
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