べき事だと思ったりした。
玉のほうは三毛とは反対に神経が遅鈍で、おひとよし[#「おひとよし」に傍点]であると同時に、挙動がなんとなく無骨で素樸《そぼく》であった。どうかするとむしろ犬のある特性を思い出させるところがあった。宅《うち》へ来た当座は下性《げしょう》が悪くて、食い意地がきたなくて、むやみにがつがつしていたので、女性の家族の間では特に評判がよくなかった。それで自然にごちそうのいい部分は三毛のほうに与えられて、残りの質の悪い分け前がいつでも玉に割り当てられるようになっていた。しかし不思議なものでこの粗野な玉の食い物に対する趣味はいつとなしに向上して行って、同時にあのあまりに見苦しいほどに強かった食欲もだんだん尋常になって行った。挙動もいくらかは鷹揚《おうよう》らしいところができてきたが、それでも生まれついた無骨さはそう容易には消えそうもない。たとえば障子の切り穴を抜ける時にも、三毛だとからだのどの部分も障子の骨にさわる事なしに、するりと音もなくおどり抜けて、向こう側におり立つ足音もほとんど聞こえぬくらいに柔らかであるが、それが玉だとまるで様子がちがう。腹だか背だかあるいはあと足だか、どこかしらきっと障子の骨にぶつかってはげしい音を立て、そして足音高く縁側に、おりるというよりむしろ落ちるのである。この区別はあるいは一般に雌雄の区別に相当する共通のものであるかどうか私にはわからない。しかし考えてみると人間の同じ性のものの中でもこれに似た区別がかなりに著しい。ちょっと一つの部屋《へや》から隣の部屋へ行く時にも必ず間の唐紙《からかみ》にぶつかり、縁側を歩く時にも勇ましい足音を立てないでは歩かない人と、また気味の悪いほどに物音を立てない人とがある事を考えてみると、三毛と玉との場合にもおもな差別はやはり性の相違ばかりではなくて個性の差に帰せらるべきものかもしれない。
ことしの春寒のころになってから三毛の生活に著しい変化が起こって来た。それまでほとんどうちをあける事のなかったのが、毎日のように外出をはじめた。従来はよその猫《ねこ》を見るとおかしいほどに恐れて敵意を示していたのが、どうした事か見知らぬ猫と庭のすみをあるいているのを見かける事もあった。一日あるいはどうかするとそれ以上も姿を隠す事があった。始めはもしや猫殺しの手にでもかかったのではないかと心配して近所じゅうを
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