か、そうとでも考えなければ全然説明ができないのである。
階段の花売りについてはどうも心当たりがない。しかしことによると前日|新宿《しんじゅく》の百貨店で造花の売り場の前を通ったときの無意識の印象が無意識な過程を通じてこれに関係しているのかもしれない。
法事の場面については心当たりがある。前夜の夕刊に青森《あおもり》県|大鰐《おおわに》の婚礼の奇風を紹介した写真があって、それに紋付き羽織|袴《はかま》の男装をした婦人が酒樽《さかだる》に付き添って嫁入り行列の先頭に立っている珍妙な姿が写っている。これが自分の和服礼装に変相し、婚礼が法事に翻訳されたのかもしれない。紫色の服を着た女はやはり同じ写真の中に現われた黒い式服の中年婦人の変形であるとしたところで、瀬戸物を踏み砕く一条だけは説明困難である。あるいは葬式や嫁入りの門先に皿鉢《さらばち》を砕く、あの習俗がこんな妙な形に歪曲《わいきょく》されて出現したのかもしれない。
島へ渡ったのは、たぶん大阪《おおさか》高知《こうち》間飛行の話の時に思い浮かべた瀬戸内海《せとないかい》の島が素因をなしているかと思われる。
前日の昼食時にA君が、自分の昔の同窓の一人で現に生存しているある人の事についてほんのちょっとばかり話をした。その瞬間に自分の頭の中のどこかのすみを他の同窓のだれかれの影が通り過ぎてすぐ消えたのかもしれない、そうして中でもいちばん早くなくなったS君の記憶が多少特別なアクセントをもって印銘された、その余響のようなものがこの夢のS君出現の動機になったのだと仮定すると不思議でなくなる。
Nの兄というのは全然見当がつかないし、その鼻隠しのヴェールに至ってはさらに奇中の奇である。帝大総長の引き合いに出るのもどうも解釈がつかない。これはフロイドかそのお弟子《でし》に頼むほかないと思われる。とにかくそういう人たちの参考になるかもしれないと思ったのでできるだけ忠実にこのひと朝の夢の現象を記録したつもりである。
二 とんぼ
八月初旬のある日の夕方|信州《しんしゅう》星野温泉《ほしのおんせん》のうしろの丘に散点する別荘地を散歩していた。とんぼが一匹飛んで来て自分の帽子の上に止まったのを同伴の子供が注意した。こういう事はこの土地では毎日のように経験することである。
ステッキの先端を空中に向けて直立させているとそれに来てとまる。そこでステッキをその長軸のまわりに静かに回転させると、とんぼはステッキの回るのとは逆の方向にからだを回して、周囲の空間に対して、常に一定の方向を保とうとする。そういう話を前日子供たちから聞いていたのではたして事実かどうか実験してみようと思った。
帽子を離れたとんぼが道ばたの草に移った。そのそばにステッキの先端を近づけて二三度あやつっていたら、うまく乗り移って来た。静かにステッキを垂直に取直しておいて、そろそろ回転させてみた。はじめはいっこうに気づかないようであるが九十度以上も回転すると何かしら異常を感じるらしく、つかまっている足を動かしてからだをねじ向ける。しかしそれはわずかに十度か二十度ぐらい回転するだけで、すっかり元の方向まで向き直るようなことはない。なんべんも繰り返してみたが同じ結果であった。
道路に沿うて頭の上を電線が走っている。それにたくさんのとんぼが止まっているが、それがみんなだいたい東を向いている。ステッキのとんぼが最初に止まったのと同じ向きである。
夕日がもう低く傾いていて、とんぼはみんなそれに尻《しり》を向けているのであった。当時ほとんど無風で、少なくも人間に感じるような空気の微動はなかったので、ことによるととんぼはあの大きな目玉を夕日に照りつけられるのがいやで反対のほうに向いているのではないかとも思われた。
試みに近い範囲の電線に止まっている三十五匹のとんぼの体軸と電線とのはさむ角度を一つ一つ目測して読み取りながら娘に筆記させた。その結果を図示してみるとそれらの角度の統計的分布は明瞭《めいりょう》に典型的な誤差曲線を示している。三十五匹のうち九匹はだいたい東西に走る電線に対してその尻を南へ十度ひねって止まっている。この最大|頻度《ひんど》の方向から左右へ各三十度の範囲内にあるものが十九匹である。つまり三十五のうちの二十八だけ、すなわち八十プロセントだけは、三十度以内まで一定の方向にねらいをつける能力をもっていたといわれる。
残りの二十プロセントすなわち七匹のうちで三匹だけは途方もなく見当をちがえて、最大|頻度《ひんど》方向からそれぞれ百三十度と百四十度と百六十度というむしろ反対の方向をむいていた。人間流に考えるとこの三匹はのんきで無神経で、つまり環境への順応が遅鈍であるのか、それともつむじ曲がりのあまのじゃくであるのかとも
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング