。しかし、気をつけないと、自働交換台の豆電燈の瞬きを手帳に記録するだけで満足するようなことになる恐れがないとは云われない。

         七

 ドンキホーテの映画を見た。彼の誇大妄想狂の原因は彼の蒐集した書物にあるから、これを焼き捨てなければいけないというので大勢の役人達が大きな書物をかかえて搬《はこ》び出す場面がある。この画面が進行していたとき、自分の前の座席にいた男の子が突然大きな声で「アー、大掃除だ」と云った。つい近頃五月の大掃除があったのを思い出したのであろう。あちらこちらの暗がりで笑声が聞えた。
 子供は子供の見方をするように人々はまた思い思いの見方をしているであろう。自分はこの映画を見ているうちに、何だか自分のことを諷刺《ふうし》されるような気のするところがあった。自分の能力を計らないで六かしい学問に志していっぱしの騎士になったつもりで武者修行に出かけて、そうしてつまらない問題ととっ組み合って怪物のつもりでただの羊を仕とめてみたり、風車に突きかかって空中に釣り上げられるような目に会ったことはなかったかどうか、そんなことを考えない訳にはゆかなかった。
 しかしまたこんなことも考えた。この映画に現われて来る登場人物のうちで誰が一番幸福な人間かと思って見ると、天晴《あっぱ》れ衆人の嘲笑と愚弄の的になりながら死ぬまで騎士の夢をすてなかったドンキホーテと、その夢を信じて案山子《かかし》の殿様に忠誠を捧げ尽すことの出来たサンチョと、この二人にまさるものはないような気もするのであった。
 燃え尽した書物がフィルムの逆転によって焼灰《やけばい》からフェニックスのごとく甦って来る。巻き縮んだ黒焦《くろこげ》の紙が一枚一枚するすると伸びて焼けない前のページに変る。その中からシャリアピンの悲しくも美しいバスのメロディーが溢れ出るのであった。
 歴史に名を止めたような、えらい武人や学者のどれだけのパーセントが一種のドンキホーテでなかったか。現在眼前に栄えているえらい人達のうちにも、もしかしたら立派なドンキホーテが一人や二人はいるのではないか。そんなことを考えながら帝劇の玄関を下りて、雨のない六月晴の堀端《ほりばた》の薫風に吹かれたのであった。

         八

 随筆は誰でも書けるが小説はなかなか誰にでも書けないとある有名な小説家が何かに書いていたが全くその通り
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