かった。
 ボーイは居なかった。その代りに若い女ボーイが一人居た。大柄な肥った女で、近頃はやる何とかいう不思議な髪を結《ゆ》って、白いエプロンを掛けていた。
 前のボーイはどうしたのだろう、聞いてみたいと思いながらもとうとう何も聞かずにそこを出た。
 何だか少し物足りないような心持になって、そこらのバラックの街を歩いた。自分の頭の中にある狭い世の中の一角が、それは小さな一角ではあるが、永久に焼払われたような気がした。何故だろう。
 今まであの店の部屋の古風な装飾なり、また燕尾服《えんびふく》を着たボーイなりが、すべて前の世紀の残りものであったのが、火事で焼けたこの機会に、一足飛びに現代式に変ってしまったのだというような気がした。そして、事によると、あのボーイはその前世紀から焼け出されて、しかも今の世紀に落ち付く家がなくて、困っているのではないかというような想像もした。
 それからしばらくしてまた行ってみると、私の頭にはもうここに居なくなったはずの昔のボーイがちゃんと出て控えていた。聞いてみると病気で休んでいたというのである。私はいつもながらの自分の任意な空想に欺されたのだと思って可笑《おか》しくもあった。しかしそれにしてもこのボーイの外貌《がいぼう》について、一つ著しい変化の起っているのを見逃す事は出来なかった。それは、地震前には漆《うるし》のように黒かった髪の毛が、急に胡麻塩《ごましお》になって、しかもその白髪であるべき部分は薄汚い茶褐色を帯びている事であった。そして、思いなしか、眼の光にも曇りが出来て、何となしに憔悴《しょうすい》した表情がこの人の全外容に表われているのであった。
 私は別に何事も深く尋ねてもみなかった。ただ地震当時の模様など聞いたばかりで帰って来た。
 その後また行ってみると、今度はまた男ボーイは居ないで前の女がただ一人で給仕をつとめていた。あの男はまた病気でもしているのかと思って聞いてみると、先日からもう暇を取って、ここには居ないというのである。どうしてかと聞いてみると、よくは分らないが、何か間違いでも仕出かして、一度出されかかったのを、定客か誰かの仲裁で、再び元通りになっていた。しかしやはり工合が悪くて、結局自分でよしてしまったのであるらしい。
 この事件の内容については、それきりで何事も自分には分らない。しかし、それは、もしあの大震災さえなければ起らなかったような事件ではなかったろうかという気がした。少なくも震災が事件の「引金」を引いたのではないかという、漠然とした想像をした。そして、この事はともかくも、今度の震災が動機となって起ったであろうと思われる、ありとあらゆる事件や葛藤、それらの犠牲となったさまざまな人達の事を、空想の馳《は》せる限りに思いめぐらしてみた。
[#地から1字上げ](大正十三年四月『中央公論』)



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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