は小さなようでも電車切符の穴調べも遣り方によっては市民の頭の中に或るものをつぎ込み、その中から或るものを取り去るような効果がないとは限らない。
例えばわれわれが毎日電車に乗る度に、私が日比谷で見たような場面を見せられるとしたらどうだろう。おそらくわれわれの「感情美」に対する感覚は日に日に麻痺《まひ》して行きそうである。
百千年の後に軽率な史家が春秋《しゅんじゅう》の筆法を真似て、東京市民をニヒリストの思想に導いた責任者の一つとして電気局を数えるような事が全くないとは限らないような気もする。
十幾年前にフィンランドの都ヘルジングフォルスへ遊びに行った時に私を案内して歩いたあちらの人が、財布から白銅貨のような形をした切符を出して、車掌というものの居ない車掌台の箱に投げ込むのを見た。つまらない事だが、私が今でもこの国この都を想い出す時に起る何となく美しい快い感じには、この些細《ささい》な事もいくらかを寄与しているように思う。
諸国を旅してみてもいったん売った電車切符をまた取り戻すような国は稀であった。それで私は国々で乗った電車切符を記念に集めて持ち帰る事が出来た。この妙な機会に私はこれで張り交ぜの屏風でも作って「人を盗賊と思わない国々」の美しい想い出にしようかと思っている。
五 善行日と悪行日
ある日新聞を見ていると妙な広告が眼についた。「サーモンデー」と大きな字で印刷してある。何かの説教でもあるかと思ってよく見ると、それは Sermon でなくて Salmon day であった。鮭の鑵詰《かんづめ》を食う日で、すなわちその鑵詰の広告のようなものと判断された。そうしてそれが当日行われたいわゆる「節約デー」に因《ちな》んだものだという事に気が付いた。
鮭と節約との関係は別問題として、私にはこの「節約デー」という文字自身が何となく妙な感じを与えた。その感じはちょっと簡単に説明し難い種類のものである。それはつまりこれから以下に私が書こうとする事を煎《せん》じつめたような妙なものであった。
歳のうちのある特定の日を限って「節約デー」を設けるという事は、従来の多くの日には節約をしていないか、もしくは濫費をしていたという事である。同じような例を挙げると、年中怠けてばかりいる学生が、一年に一日「勉強デー」を設けるのや、あるいは平生悪い事ばかりしている男が、稀に「善行デー」を設けるのと同じような事で、それも一応は誠にいい事だと思われる。
しかし一日の善行で百日の悪行を償ってまだその上に釣銭をとるような心持が万一でもあってはかえって困る。一体そういう心配は全然ないものだろうか。一般には云われないまでもそういう了簡《りょうけん》の人もまるでないとは云われないようである。
そういう事のないように、その特別な一日を起点としてその後引続いて善い事をする習慣をつけるという目的で、少なくも今度の「節約日」は宣伝され奨励されたものであろうと思われる。そうでなければ宣伝ビラの印刷費用だけでもかえって濫費になる勘定である。この度の節約日の効果は日が経ってみなければ分るまいが、私はこういう「日」の必要自身が既に結果の失敗を保証するように思われて仕方がない。
それはとにかくこの種の色々の「善行デー」はどうもつい近頃西洋から輸入されたものらしく私には思われる。よく調べてみなければどうだか分らないが、何となくアメリカあたりからでも来たらしいような感じのするものである。少なくともそういう匂いがある。
昔の事はよくは知らないが、ただ自分の狭い経験から考えても、以前にはこういう特別な「善行デー」などよりむしろ「悪行デー」とでも名づくべきものが多かったような気がする。
田舎の農夫等が年中大人しく真面目に働いているのが、鎮守《ちんじゅ》の祭とか、虫送りとか、盆踊りとか、そういう機会に平生の箍《たが》をはずして、はしゃいだり怠け遊んだりした。近年は村々に青年会などという文化的なものがあるからおそらく昔のような事は見られまい。また私の郷里では昔天長節の日に市の公園で「お化け」と称する仮装行列が行われた。これも真面目な勤勉な市民が羽目をはずして怠け巫山戯《ふざけ》る日であった。これは警察の方でとうに制限を加えたようである。
どんな勤倹な四民も年に一度のお花見には特定の「濫費デー」を設けた。ある地方の倹約な商家では平日雇人のみならず主人達も粗食をしていて、時々「贅沢デー」を設けて御馳走を食ったという話もある。もっともこれは全く算盤《そろばん》から割り出した方法だそうではあるが。
「無礼講」という言葉が残っており、西洋でも「エプリルフール」という事がある。
あれほど常識的な英国にでもわれわれに了解の出来ないほど馬鹿げた儀式が残っているようであるが、それが今日では単に国粋保存というような意味ばかりでなく、つまり、常に常識的であるための「非常識デー」として存在の価値を保っているらしく私には思われる。
「濫費日」や「嘘つき日」や「怠け日」はあまり聞えはよくないかもしれないが、実はこれらの特定日の存在は平日の節約勤勉真面目を表白するとすれば目出度《めでた》い事である。そしてそういう場合に行われるこれらの「デー」の効果は必ずしも悪いばかりとは思われない。たとえ今日のような世の中でも、場合によってはかえってこの頃のいろいろの人聞きのいいデーに勝る事がないとも限らない。今の人でもおそらく年中悪い事ばかりはしていまい。
危険な崖の上に立っている人を急に引止めようとするとかえって危険だという話がある。これと似た事がもし適用するとすれば、濫費に偏しているものを一日だけ引き戻すのはかえって危険な場合があるかもしれない。後に引いた弓を放てば矢は前に飛ぶ。しかしこの類推はこの場合にあてはまるかどうだかそれは分らない。
それにしても「節約デー」という言葉が私にはやはり不思議な感じを与える。もしこれが反対に「濫費デー」であったらその意味は私にはかえって呑み込みやすく、その効果も見当がつくような気がする。
世の中の人の心は緊張と弛緩《しかん》の波の上に泛《ただよ》っている。正と負の両極の間に振動している。
「善行日」ばかりを奨励するのも考え物ではあるまいか。少なくとも「悪行日」をこれと並行錯雑させて設けてみるのも一つの案ではあるまいか。昔の為政家は実際そういう事をしたもののように見える。
しかし私のこの案はやはり賛成してくれる人はなさそうである。私のいうような「悪行日」はだんだん廃止される。最近にはまた勉強の活勢力を得るための潜勢力を養うべき「怠け日」であった暑中休暇も廃止されるくらいであるから。[#地から1字上げ](大正十一年九月『中央公論』)
底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年9月25日作成
2005年11月10日修正
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