っておこられたら、そんな所に足をもって来ているやつがあるか気をつけろとどなりつけるだけの勇気[#「勇気」に傍点]がないのだろう。この勇気がなくてはとても今の世間をのんびりした気持ちでは渡って行かれないらしい。昔は命を的にしなければ、うっかり誤ってでも人の足も踏めず、悪口も無論言われなかった。私の血縁の一人は夜道で誤って突き当たった人と切り合って相手を殺し自分は切腹した。それが今では法律に触れない限り、自分のめがねで見て気に入らない人間なら、足を踏みつけておいて、さかさまにののしるほうが男らしくていいのである。そういう事を道楽のようにして歩いている人格者もある。それで私は自分の子供らの行く末を思うなら、そういうふうに今から教育しなければさきで困るのではないかと思う事もしばしばある。
「赤羽《あかばね》で今電気をたく[#「電気をたく」に傍点]ところをこさえ[#「こさえ」に傍点]ているが、それができるとはや[#「はや」に傍点]……」こんな事を話している男があった。電気をたくという言葉がおもしろかった。日本語もこういうぐあいに活用させる人ばかりだったら、字を見なければわからないあるいは字を見ても読めないような生硬な術語などをやめてしまって、もう少し親しみのあるものに代える事ができそうである。国語調査会とかいうものでこういういい言葉を調べ上げたらよさそうに思われた。
浦和の停車場からすぐに町はずれへ出て甘藷《さつまいも》や里芋やいろいろの畑の中をぶらぶら歩いた。とある雑木林の出っ鼻の落ち葉の上に風呂敷《ふろしき》をしいてすわり込んで向かいの丘を写し始めた。平生はただ美しいとばかりで不注意に見過ごしている秋の森の複雑な色の諧調《かいちょう》は全く臆病《おくびょう》な素人《しろうと》絵かきを途方にくれさせる。まだ目の鋭くないわれわれ初学者にとってはおそらくこれほどいい材料はあるまい。しかし黒人《くろうと》になればたぶんただ一面のちゃぶ台、一握りの卓布の面の上にでもやはりこれだけの色彩の錯綜《さくそう》が認められるのであろう。それほどになるのも考えものであるとも思うが、しかしたとえ楽しみ事にしろやっぱりそこまで行かなければつまらないとも思う。
畑に栽培されている植物の色が一切れごとにそれぞれ一つも同じものはない。打ち返されて露出している土でも乾燥の程度や遠近の差でみんなそれぞれ
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