ようなものが置いてあった。ふたをあけて見ると腐ったような水の底に鉄釘《てつくぎ》の曲がったのや折れたのやそのほかいろいろの鉄くずがいっぱいはいっていて、それが、水酸化鉄であろうか、ふわふわした黄赤色の泥《どろ》のようなものにおおわれていた。水面をすかして見ると青白い真珠色の皮膜を張ってその膜には氷裂状にひびがはいっているのであった。晩秋の夜ふけなどには、いつもちょうどこの土瓶のへんでこおろぎが声を張り上げて鳴いていたような気がする。
 このきたない土瓶からきたない水を湯飲みか何かにくみ出して、それにどっぷりおはぐろ筆を浸す。そうしてその筆の穂を五倍子箱《ふしばこ》の中の五倍子《ふし》の粉の中に突っ込んで粉を充分に含ませておいて口中に運ぶ、そうして筆の穂先を右へ左へ毎秒一往復ぐらいの週期で動かしながらまんべんなく歯列の前面を摩擦するのである。何分間ぐらいつづけていたかはっきりした記憶はないがかなり根気よくやっていたようである。妙にぐしゃぐしゃという音をたてて口の中を泡《あわ》だらけにして、そうしてあの板塀《いたべい》や下見などに塗る渋のような臭気を部屋《へや》じゅうに発散しながら、こうした涅歯術《でっしじゅつ》を行なっている女の姿は決して美しいものではなかったが、それにもかかわらず、そういう、今日ではもう見られない昔の家庭の習俗の思い出には言い知れぬなつかしさが付随している。この「おはぐろの追憶」には行燈《あんどん》や糸車の幻影がいつでも伴なっており、また必ず夜寒のえんまこおろぎの声が伴奏になっているから妙である。
 おはぐろ筆というものも近ごろはめったに見られなくなった過去の夢の国の一景物である。白い柔らかい鶏の羽毛を拇指《おやゆび》の頭ぐらいの大きさに束ねてそれに細い篠竹《しのだけ》の軸をつけたもので、軸の両端にちょっとした漆の輪がかいてあったような気がする。七夕祭《たなばたまつ》りの祭壇に麻や口紅の小皿《こざら》といっしょにこのおはぐろ筆を添えて織女にささげたという記憶もある。こういうものを供えて星を祭った昔の女の心根には今の若い婦人たちの胸の中のどこを捜してもないような情緒の動きがあったのではないかという気もするのである。
 今の娘たちから見ると、眉《まゆ》を落とし歯を涅《そ》めた昔の女の顔は化け物のように見えるかもしれない。しかし、逆にまた、今の近代嬢の髪を切りつめ眉毛を描き立て、コティーの色おしろいを顔に塗り、キューテックの染料で爪《つめ》を染め、きつね一匹をまるごと首に巻きつけ、大蛇《だいじゃ》の皮の靴《くつ》を爪立《つまだ》ってはき歩く姿を昔の女の眼前に出現させたらどうであったか。やはり相当立派な化け物としか思われなかったであろう。
 去年の夏|数寄屋橋《すきやばし》の電車停留場安全地帯に一人の西洋婦人が派手な大柄の更紗《さらさ》の服をすそ短かに着て日傘《ひがさ》をさしているのを見た。近づいて見ると素足に草履《ぞうり》をはいている。そうして足の指の爪《つめ》を毒々しいまっかな色に染めているのであった。なんとも言われぬ恐ろしい気持ちがした。何かしら獣か爬虫《はちゅう》のうちによく似た感じのものがあるのを思い出そうとして思い出せなかった。
 近ごろあるレストランで友人と食事をしていたら隣の食卓にインドの上流婦人らしい客が二人いて、二人ともその額の中央に紅の斑点《はんてん》を印していた。同じ紅色でも前記の素足の爪紅《つまべに》に比べるとこのほうは美しく典雅に見られた。近年日本の紅がインドへ輸出されるのでどうしたわけかと思って調べてみると婦人の額に塗るためだそうだという話をせんだって友人から聞いていたが、実例をまのあたりに見るのははじめてである。
 いつか見た「バンジャ」という映画で、南洋土人の結婚式に、犠牲の鶏を殺してその血をちょっぴり鉢《はち》にたらし、そうして、その血を新夫婦が額に塗りまた胸に塗る場面があった。今度インド婦人の額の紅斑を見たときになんとなくそれを思い出して、何か両者の間に因縁があるのではないかという気がした。それからまた、「血」という字は「皿《さら》」の上に血液「ノ」を盛った形を示すという説を思い出し、「ノ」がどうして血の象徴になりうるかという意味が「バンジャ」の映画の皿の中の一抹《いちまつ》の血を見てはじめてわかったような気もするのであった。
 それはとにかく、額に紅を塗ったり、歯を染めたり眉《まゆ》を落としたりするのは、入れ墨をしたり、わざわざ傷あとを作ったりあるいは耳たぶを引き延ばし、またくちびるを鳥のくちばしのように突出させたりする奇妙な習俗と程度こそ違え本質的には共通な原理に支配された現象のような気がする。ちょっと考えると「美しく見せよう」という動機から化粧が起こったかと思われるが実はそうでないらしい。むしろ天然自然の肉体そのままの姿を人に見せてはいけない、そうすると何かしら不都合なことが起こるという考えがその根底にあるのではないかと疑われる。つまり一種のタブーからだんだんにこうした珍奇な習俗が発達したのではないかという気がするのである。これについてはたぶんその方面の学者たちの学説がいろいろあることと思われる。
 いずれにしても、こんなふうに「化ける」ための化粧をするのはおそらく人間以外の動物にはめったにない事であろうと思われる。人間は火を使用する動物なりという定義とほぼ同等に化粧する動物なりという定義もできるかもしれない。そうだとすると、男も鉄漿黒々《かねくろぐろ》とつけていた日本の昔は今よりももっと人間のこの特権を充分に発揮していたことになるかもしれない。

     十五 視角

 はじめて飛行機に乗った経験を話している人が、空中から見た列車の長さがたったこれだけのひものようにしか見えなかったと言ってさし出した両手の間に約一尺ぐらいの長さを画して見せた。これは機上から見た列車の全長の「視角」がほぼ腕の長さに等しい距離において一尺の長さが有する視角に等しいという意味と思われる。それで列車の実際の長さがわかっていれば、その時の飛行機の高度が算出される勘定である。しかし、多くの人はこういう場合に単に汽車が一尺ぐらいに見えたとか橋がマッチぐらいだったとか言う。これは科学的にはほとんど無意味な言葉である。それにもかかわらずそういう無意味な言い現わし方をする人は相当な教養のある人にも少なくないようである。「盆大の月」とか、「たらいほどなおてんとう様」とかいうのも学問的にはナンセンスである。盆やたらいの距離を指定しなければ客観的には意味を成さない。言う人のつもりでは月や太陽を勝手なある距離に引き寄せて考えているのだが、その無意味な主観的な仮定は他人には通じない。
 人玉を見たという人にその光り物の大きさを聞いてみても視角でいくらぐらいという人はきわめてまれである。風船玉ぐらいだったとか、電球の大きさだったとかいうのが普通である。言う人の心持ちではやはりだいたいその目的物の距離を無意識に仮定しているのである。
 月や太陽が三十メートルさきの隣家の屋根にのっかっている品物であったらそれはたしかに盆大である。しかし実際は二億二千八百万キロメートルの距離にある直径百四十万キロメートルの火の玉である。
 ヘルムホルツは薄暮に眼前を横ぎった羽虫を見て遠くの空をかける大鵬《たいほう》と思い誤ったという経験をしるしており、また幼時遠方の寺院の塔の回廊に働いている職人を見たときに、あの人形を取ってくれと言っておかあさんにせがんだことがあると言っている。
 いつか上野《うえの》の松坂屋《まつざかや》の七階の食堂の北側の窓のそばに席を占めて山下《やました》の公園前停留場をながめていた。窓に張った投身者よけの金網のたった一つの六角の目の中にこの安全地帯が完全に収まっていた。そこに若い婦人が人待つふぜいで立っていると、やがて大学生らしいのが来ていっしょになった。このランデヴーのほほえましい一場面も、この金網のたった一つの目の中で進行した。
 これといくらか似たことは自分自身や身近いものの些細《ささい》な不幸が日本全体の不幸のように思われ、自分の頭痛で地球が割れはしまいかと思うことである。たとえばまた自分の専攻のテーマに関する瑣末《さまつ》な発見が学界を震駭《しんがい》させる大業績に思われたりする。しかし、人が見ればこれらの「須弥山《しゅみせん》」は一粒の芥子粒《けしつぶ》で隠蔽《いんぺい》される。これも言わば精神的視角の問題である。この見やすい道理を小学校でも中学校でもどこでも教わらない人が多数いるような気がする。
 自分は高等学校の時先生からたいへんにいいことを教わった。それは、太陽や月の直径の視角が約半度であること、それから腕をいっぱいに前方へ伸ばして指を直角に曲げ視線に垂直にすると、指一本の幅が視角にして約二度であるということであった。それでこの親譲りの簡易測角器械さえあれば、距離のわかったものの大きさ、大きさのわかった物の距離のおおよその見当だけは目の子勘定ですぐにつけられる。これも万人が知っていて損にならないことであるが、木を見ることを教えて森を見ることは教えない今の学校教育では、こんな「概略な見当」を正しくつけるようなことはどこでも教えないらしい。高価な精密な器械がなければ一尺と百尺との区別さえもわからないかのように思い込ませるのが今の教育の方針ではないかと思われることもある。これも考えものである。
 視角の概念とその用途は小学校でも楽に教えこまれる。これを教えておくと世の中に無用なけんかの種が一つ二つは減るであろうと思われるのである。
[#地から3字上げ](昭和十年四月、中央公論)

     十六 歌舞伎座見物

 二月の歌舞伎座《かぶきざ》を家族連れで見物した。三日前に座席をとったのであるが、二階の二等席はもうだいたい売り切れていて、右のほうのいちばんはしっこにやっと三人分だけ空席が残っていた。当日となって行って見ると、そのわれわれの座席の前に補助椅子《ほじょいす》の観客がいっぱい並んで、その中には平気で帽子をかぶって見物している四十格好の無分別男がいたりしたので、自分の席からは舞台の右半がたいてい見えず、肝心の水谷八重子《みずたにやえこ》の月の顔《かん》ばせもしばしばその前方の心なき帽子の雲に掩蔽《えんぺい》されるのであった。劇場建築の設計者が補助椅子というものの存在を忘れていたらしい。
 一番目「嘆きの天使」はかつてスタンバーク監督ディートリヒ主演の映画を見ていたので、それとこれとを比較して見るという興味があった。さて「高等中学」の教室に現われた教授ウンラートはと見ると、遠方から見たいったいの風貌《ふうぼう》がエミール・ヤニングスの扮《ふん》した映画のウンラートにずいぶんよく似ているので、よくもまねたものだと多少感心した。しかし、同時に登場したドイツ学生の動作が自分の目にはどうしてこうもスチューピッドにできるかと思うほどスチューピッドに見えた。動物学の書物にナマケモノという動物があるが、あれがおおぜいのたうち回っているのだというような不思議な印象を受けただけであった。毎日こういう生徒を相手にしているのでは、ウンラートでなくても、どこか他に転向の新天地が求めたくなるであろうという気がするのであった。
 映画では、はじめにウンラートの下宿における慰めなき荒涼無味の生活の描写があり、おまけにかわいがって飼っていた小鳥の死によって、この人の唯一の情緒生活のきずなの無残に断たれるという場面が一種の伏線となっているので、それでこそ後にポーラの楽屋のかもし出す雰囲気《ふんいき》の魅力が生きて働いてくるように思われるが、この芝居には、そういったようなデリケートな細工などは一切抜きにして全く荒削りの嘆きの天使ができあがっているようである。同じようなわけで、後に教授が道化役になって雄鶏《おんどり》の鳴き声をするのでも、映画のほうではちゃんとしたそれだけの因縁が明らかにされている。それは、ポーラとの結婚を
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