分析してみてはじめて発見するのである。粥釣《かゆつ》りが子供ばかりでなくむしろおとなによって行なわれたかと思わるる昔ではこうした雰囲気があるいはかなりに重要な意義をもっていたのではないかとも想像されるのである。
 自分の宅《うち》へ来る粥釣りを内側から見物した場合のほうが多かったように思う。粥釣りに来るおおぜいの中でも勇敢なのは堂々と先頭に立ってやって来るが、気の弱いのは先頭の背後に隠れるようにして袋をさし出すのもある。しかしなにしろおもに近所の人たちであるから、たとえ女の着物を着たり、羽織をさかさまに着たりしていてもおおよその見当がつく場合が多い。粥釣りを迎える家に勇猛な女中でもいると少し怪しいと思われるようなのをいきなりつかまえて面を引きはごうとして大騒ぎになるようなこともあったような気がする。
 こじきを三日すると忘れられないというが、自分にもこのこじきの体験は忘れられないものである。このこじき根性が抜けないおかげで今日をどうやらこうやら飢えず凍えず暮らして行かれるのかもしれないのである。
 こんな年中行事は郷里でも、もうとうの昔に無くなってしまって、若い人たちにはそんな事があったということさえ知られていないかもしれない。

     三 冬夜の田園詩

 これも子供の時分の話である。冬になるとよく北の山に山火事があって、夜になるとそれが美しくまた物恐ろしい童話詩的な雰囲気《ふんいき》を田園のやみにみなぎらせるのであった。
 友だちと連れ立って夜ふけた田んぼ道でも歩いているときだれの口からともなく「キーターヤーマー、ヤーケール、シシーガデゥヨ」と歌うと他のものがこれに和する。終わりの「出ぅよ」を早口に歌ってしまうと何かに追われでもしたようにみんないっせいに駆け出すのであった。そういうときの不思議な気持ちを今でもありありと思い出すことができる。
 自分が物心づくころからすでにもうかなりのおばあさんであって、そうして自分の青年時代に八十余歳でなくなるまでやはり同じようなおばあさんのままで矍鑠《かくしゃく》としていたB家の伯母《おば》は、冬の夜長に孫たちの集まっている燈下で大きなめがねをかけて夜なべ仕事をしながらいろいろの話をして聞かせた。その中でも実に不思議な詩趣を子供心に印銘させた話は次のようなものであった。
 冬のやみ夜に山中のたぬきどもが集まって舞踊会のようなことをやる。そのときに足踏みならしてたぬきの歌う歌の文句が、「こいさ(今宵《こよい》の方言)お月夜で、お山踏み(たぶん山見分《やまけんぶん》の役人のことらしい)も来まいぞ」というので、そのあとに、なんとかなんとかで「ドンドコショ」というはやしがつくのである。それを伯母が節おもしろく「コーイーサー、(休止)、オーツキヨーデー、(休止)、オーヤマ、フーミモ、コーマイゾー」というふうに歌って聞かせた。それを聞いていると子供の自分の眼前には山ふところに落ち葉の散り敷いた冬木立ちのあき地に踊りの輪を描いて踊っているたぬきどもの姿がありあり見えるような気がして、滑稽《こっけい》なようで物すごいような、なんとも形容のできない夢幻的な気持ちでいっぱいになるのであった。
 後年夏目先生の千駄木《せんだぎ》時代に自筆絵はがきのやりとりをしていたころ、ふと、この伯母《おば》のたぬきの踊りの話を思い出して、それをもじった絵はがきを先生に送った。ちょうど先生が「吾輩《わがはい》は猫《ねこ》である」を書いていた時だから、さっそくそれを利用されて作中の人物のいたずら書きと結びつけたのであった。
 それはとにかく、この「山火事と野猪《やちょ》」の詩や、「たぬきの舞踊」の詩には現代の若い都人士などには想像することさえ困難であろうと思われるような古い古い「民族的記憶」といったようなものが含まれているような気がする。それは万葉集などよりはもっと古い昔の詩人の夢をおとずれた東方原始民の詩であり歌であったのではないかと思われるのである。そうした詩が数千年そのままに伝わって来ていたのがわずかにこの数十年の間に跡形もなく消えてしまうのではないかと疑われる。
 グリムやアンデルセンは北欧民族の「民族的記憶」のなごりを惜しんで、それを消えない前によび返してそれに新しい生命を吹き込んだ人ではないかと想像される。
 近ごろわが国でも土俗学的の研究趣味が勃興《ぼっこう》したようで誠に喜ばしいことと思われるが、一方ではまたここに例示したような不思議な田園詩も今のうちにできるだけ収集し保存しまたそれを現在の詩の言葉に翻訳しておくことも望ましいような気がするのである。

     四 食堂骨相学

 ある大衆的な食堂で見知らぬ人たちと居並んで食事をしていた。自分は耳がよくないせいか、それとも頭がぼんやりしているせいか、平生はこうした場所で隣席の人たちの話している声はよく聞こえても、話している事がらの内容はちっともわからないのであるが、その日隣席で話している中老人二人の話し声の中でただ一語「イゴッソー」という言葉が実にはっきり聞きとれたのでびっくりした。もやもやした霧の中から突然日輪でも出現したようにあまりにくっきりとそれだけが聞こえて、あとはまた元どおりぼやけてしまった。
「イゴッソー」というのは郷里の方言で「狷介《けんかい》」とか「強情」とかを意味し、またそういう性情をもつ人をさしていう言葉である。この二老人はたぶん自分の郷里の人でだれか同郷の第三者のうわさ話をしながら、そういう適切な方言を使ったことと想像される。
 それはなんでもないことであるが、私がこの方言を聞いてびっくりして二人の顔を見たときに二人の顔が急に自分に親しいもののように思われて来て、なんだかずっと昔郷里のどこかで見たことがあるか、あるいは自分のよく知っているだれかによく似ているかどちらかであるような気がして来たのであった。
 これは単に久しぶりに耳にした方言のよび起こした錯覚であったかもしれない。しかしまた郷里のような地理的に歴史的に孤立した状態で長い年月を閲《けみ》して来た国の民族の骨相には、やはりその方言といっしょにこびりついた共通な特徴があるのではないかという疑いも起こるのであった。
 また別なとき同じ食堂でこのかいわいの銀行員らしい中年紳士が二人かなり高声に私にでも聞き取れるような高調子で話しているのを聞くともなく聞いていると、当時の内閣諸大臣の骨相を品評しているらしい。詳細は忘れたが結局大臣には人相が最も大切な資格の一つであって、この資格の欠けている大臣は決して長続きしないといったようなことを一人が実例をあげて主張していた。相手は「まあ卜筮《ぼくぜい》よりは骨相のほうがましだろう」と言っているようであった。この二人の話を聞いてからなるほどそんな事もあろうかと思って試みに当代ならびにその以前の廟堂《びょうどう》諸侯の骨相を頭の中でレビューしながら「大臣顔」なるものの要素を分析しようと試みたのであった。
 ついせんだってのあのベーブ・ルースの異常な人気でも、ことによると彼の特異な人相に負うところが大きいのかもしれない。
 こうした大食堂の給仕人はたいていそろそろ年ごろになろうという女の子であって、とにかくあまり醜くないような子をそろえている。それらのだいたい同じくらいの年ごろの女の子が皆同じ制服を着ているからちょっと見ると身長の差別と肉づきの相違ぐらいしか目につかないようである。
 制服というものはある意味では人間の個性を掩蔽《えんぺい》するものである。少し離れて見れば一隊の兵士は同じ鋳型でこしらえた鉛の兵隊のように見える。しかし食堂女給のような場合にもまた逆に服装が同一であるために個人の個性がかえって最も顕著に示揚されるようにも見える。清長《きよなが》型、国貞《くにさだ》型、ガルボ型、ディートリヒ型、入江《いりえ》型、夏川《なつかわ》型等いろいろさまざまな日本婦人に可能な容貌《ようぼう》の類型の標本を見学するには、こうした一様なユニフォームを着けた、そうしてまだ粉飾や媚態《びたい》によって自然を隠蔽《いんぺい》しない生地《きじ》の相貌《そうぼう》の収集され展観されている場所にしくものはないようである。
 容貌《ようぼう》のタイプということと美醜とは必ずしも一致しないようである。たとえばキャサリン・ヘプバーン型の美人と醜婦を一人ずつ捜し出すのなどははなはだ容易であろう。
 食堂の女給の制服は腕を露出したのが多い。必然の結果として食物を食卓に並べるとき露出された腕がわれわれの面前にさし出される。日本で女の子の腕を研究するのにこれほど適当な機会はまたとないであろうと思われる。
 美しい腕をもった子は存外少ないようである。応募者の試験委員たちの採点表中に容貌の条項はあっても腕の条項がないかもしれないが、少なくも食堂の場合には、これも一つのかなりの程度まで考慮さるべきアイテムとなるべきものかもしれない。
 器量のよくないので美しい腕の持ち主もある一方ではまた美しい顔とむしろ醜い腕との結合もあるようである。神の制作したものには浅はかな人間の概念的な一般化を許さないものがあるのである。
 食堂やあるいは電車の中などで、隣席の人のもっているステッキの種類特にその頭部の装飾を見ると、それに現われたその持ち主の趣味がたいていネクタイとか腕時計とか他の持ち物に反映しているように思われる。しかし神の取り合わせた顔と腕にはそうした簡単な相関はどうもないように見える。
 食堂の入り口をながめているとさまざまの人の群れが入り込んで来る中に、よくおかあさんとお嬢さんとの一対が見られる。そうして多くの場合おかあさんよりもお嬢さんのほうが背が高く、そうしていばっているような気がする。おかあさんのほうが下手に出て何か相談しかけるとお嬢さんのほうはふんふんと鼻であしらって高圧的に出る、そういったのがよく目につく。もし代々娘のほうが母親よりも身長が一割高くなると仮定すると七八代で二倍になる勘定である、そうなったらたいへんであるがしかしこれは現代の過渡期に特有な現象であろうかと思われる。

     五 百貨店の先祖

 百貨店の前身は勧工場《かんこうば》である。新橋《しんばし》や上野《うえの》や芝《しば》の勧工場より以前には竜《たつ》の口《くち》の勧工場というのがあって一度ぐらい両親につれられて行ったような茫《ぼう》とした記憶があるが、夢であったかもしれない。それはとにかく、その勧工場のもう一つ前の前身としては浅草《あさくさ》の仲見世《なかみせ》や奥山《おくやま》のようなものがあり、両国《りょうごく》の橋のたもとがあり、そうして所々の縁日の露店があったのだという気がする。田舎《いなか》では鎮守の祭りや市日の売店があった。西洋でもおそらく同様であったろうと想像される。ドイツやフランスの田舎の町の「市」の光景は実によく自分の子供のころの田舎の市のそれと似かよったものをもっていたようである。
 子供の時分にそうした市の露店で買ってもらった品々の中には少なくも今のわれわれの子供らの全く知らないようなものがいろいろあった。
 肉桂《にっけい》の根を束ねて赤い紙のバンドで巻いたものがあった。それを買ってもらってしゃぶったものである。チューインガムよりは刺激のある辛くて甘い特別な香味をもったものである。それから肉桂酒と称するが実は酒でもなんでもない肉桂汁《にっけいじゅう》に紅で色をつけたのを小さなひょうたん形のガラスびんに入れたものも当時のわれわれのためには天成の甘露であった。
 甘蔗《さとうきび》のひと節を短刀のごとく握り持ってその切っ先からかじりついてかみしめると少し青臭い甘い汁《しる》が舌にあふれた。竹羊羹《たけようかん》というのは青竹のひと節に黒砂糖入り水羊羹をつめて凝固させたものである。底に当たる節の隔壁に錐《きり》で小さな穴を明けておいて開いた口を吸うと羊羹の棒がなめらかに抜け出して来る、それを短く歯でかみ切って食う、残りの円筒形の羊羹はちょっと吹くとまた竹筒の底に落ち着
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