切りつめ眉毛を描き立て、コティーの色おしろいを顔に塗り、キューテックの染料で爪《つめ》を染め、きつね一匹をまるごと首に巻きつけ、大蛇《だいじゃ》の皮の靴《くつ》を爪立《つまだ》ってはき歩く姿を昔の女の眼前に出現させたらどうであったか。やはり相当立派な化け物としか思われなかったであろう。
 去年の夏|数寄屋橋《すきやばし》の電車停留場安全地帯に一人の西洋婦人が派手な大柄の更紗《さらさ》の服をすそ短かに着て日傘《ひがさ》をさしているのを見た。近づいて見ると素足に草履《ぞうり》をはいている。そうして足の指の爪《つめ》を毒々しいまっかな色に染めているのであった。なんとも言われぬ恐ろしい気持ちがした。何かしら獣か爬虫《はちゅう》のうちによく似た感じのものがあるのを思い出そうとして思い出せなかった。
 近ごろあるレストランで友人と食事をしていたら隣の食卓にインドの上流婦人らしい客が二人いて、二人ともその額の中央に紅の斑点《はんてん》を印していた。同じ紅色でも前記の素足の爪紅《つまべに》に比べるとこのほうは美しく典雅に見られた。近年日本の紅がインドへ輸出されるのでどうしたわけかと思って調べてみると婦人の額に塗るためだそうだという話をせんだって友人から聞いていたが、実例をまのあたりに見るのははじめてである。
 いつか見た「バンジャ」という映画で、南洋土人の結婚式に、犠牲の鶏を殺してその血をちょっぴり鉢《はち》にたらし、そうして、その血を新夫婦が額に塗りまた胸に塗る場面があった。今度インド婦人の額の紅斑を見たときになんとなくそれを思い出して、何か両者の間に因縁があるのではないかという気がした。それからまた、「血」という字は「皿《さら》」の上に血液「ノ」を盛った形を示すという説を思い出し、「ノ」がどうして血の象徴になりうるかという意味が「バンジャ」の映画の皿の中の一抹《いちまつ》の血を見てはじめてわかったような気もするのであった。
 それはとにかく、額に紅を塗ったり、歯を染めたり眉《まゆ》を落としたりするのは、入れ墨をしたり、わざわざ傷あとを作ったりあるいは耳たぶを引き延ばし、またくちびるを鳥のくちばしのように突出させたりする奇妙な習俗と程度こそ違え本質的には共通な原理に支配された現象のような気がする。ちょっと考えると「美しく見せよう」という動機から化粧が起こったかと思われるが実はそう
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