ころから政治と科学とが没交渉ではなかったと言ってもよい。
 よくは知らないが現在のソビエト・ロシアの国是にも科学的産業興振策がかなり重要な因子として認められているらしい。たとえば飛行機だけ見てもなかなかばかにならない進歩を遂げているようである。おそらくロシアでは日本などとちがって科学がかなりまで直接政治に容喙《ようかい》する権利を許されているのではないかと想像される。
 日本では科学は今ごろ「奨励」されているようである。驚くべき時代錯誤ではないかと思う。世界では奨励時代はとうの昔に過ぎ去ってしまっているのではないか。他国では科学がとうの昔に政治の肉となり血となって活動しているのに、日本では科学が温室の蘭《らん》かなんぞのように珍重され鑑賞されているのでは全く心細い次第であろう。
 その国の最高の科学が「主動的に」その全能力をあげて国政の枢機に参与し国防の計画に貢献するのが当然ではないかと思われるのに、事は全くこれに反するように思われるのである。科学は全く受動的に非科学の奴僕《ぬぼく》となっているためにその能力を発揮することができず、そのために無能視されてしかられてばかりいるのではないかという気もする。いったい二十世紀の文明国と名乗る国がらからすれば、内閣に一人や二人のしかるべき科学大臣がいてもよさそうであり、国防最高幹部にすぐれた科学者参謀の三四人がいても悪いことはなさそうに思えるのであるが、これも畢竟《ひっきょう》は世の中を知らぬ老学究の机上の空想に過ぎないのかもしれない。

     十四 おはぐろ

 自分たちの子供の時分には既婚の婦人はみんな鉄漿《おはぐろ》で歯を染めていた。祖母も母も姉も伯母《おば》もみんな口をあいて笑うと赤いくちびるの奥に黒耀石《こくようせき》を刻んだように漆黒な歯並みが現われた。そうしてまたみんな申し合わせたように眉毛《まゆげ》をきれいに剃《そ》り落としてそのあとに藍色《あいいろ》の影がただよっていた。まだ二十歳にも足らないような女で眉を落とし歯を染めているのも決して珍しくはなかった。そうしてそれが子供の自分の目にも不思議になまめかしく映じたようである。
 今でもおはぐろのにおいを如実に思い出すことができる。いやなにおいであったがしかしまた実になつかしい追憶を伴なったにおいである。
 台所の土間の板縁の下に大きな素焼きの土瓶《どびん》の
前へ 次へ
全50ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング