に対しておこっているのをその父親が発見してひどくびっくりし、そうしてまた非常に恐ろしくなったのだそうである。
こういう話を聞いてひどく感心したことがある。つまらない笑い話のようで実はかなり深刻な人間心理の一面を暴露していると思う。こんなのも何かの小説の種にはならないものかと思う。
それはとにかく、正月をめでたいという意味が子供の時分から私にはよくわからなかったが、年を取ってもやはりまだ充分にはわからない。少なくも自分の場合では正月というととかくめでたからぬことが重畳して発生するように思われるのである。のみならず平日ならそれほどにも感じないような些細《ささい》なめでたからぬことが、正月であるがために特にふめでたに感ぜられる。これはおそらくだれでも同様に感じることであろう。たとえば小さい子供がおおぜいあるような家ではちょうど大晦日《おおみそか》や元日などによくだれかが風邪《かぜ》をひいて熱を出したりする。元旦《がんたん》だからというのでつい医者を呼ばなかったばかりに病気が悪化するといったような場合もありうるであろう。
高等学校時代のある年の元旦に二三の同窓といっしょに諸先生の家へ年始回りをしていたとき、ある先生の門前まで来ると連れの一人が立ち止まって妙な顔をすると思ったら突然仰向けにそりかえって門松に倒れかかった。そうしてそれなりに地面に寝てしまって口から泡《あわ》を吹き出した。驚いて先生を呼び出して病人をかつぎ込んでから顔へ水をぶっかけたり大騒ぎをした。幸いにまもなく正気づきはしたが、とにかくこれがちょうど元旦であったために特に大きな不祥事になってしまったのである。
正月元旦は年に一度だから幸いである。もしこれが一年に三度も四度もあったらたいへんであろうと思われるが、しかしいっそのことこれが一年に十二回とか五十回とかあるようになればまたかえって楽になるかもしれない。そう思ってみると、一年に一回ずつ特別な日を設けて、それを理由などかまわずとにもかくにもめでたい日ときめてしまって強《し》いてめでたがり、そうしてそのたびに発生するいろいろな迷惑をいっそう痛切に受難することにもなかなか深い意義があるような気がしてくる。
正月をめでたいとして祝うことを始めて発明した人があったとしたら、その人はやはりなかなかえらい人であったろうと思われるのである。
二 こじ
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