放しの家で寝ると風邪《かぜ》をひいて腹をこわすかもしれない。○を押えると△があばれだす。天然の設計による平衡を乱す前にはよほどよく考えてかからないと危険なものである。
十一 毛ぎらい
子供の時から毛虫や芋虫がきらいであった。畑で零余子《むかご》を採っていると突然大きな芋虫が目について頭から爪先《つまさき》までしびれ上がったといったような幼時の経験の印象が前後関係とは切り離されてはっきり残っているくらいである。
芋虫などは人間に対して直接にはなんらの危害を与えるものでもなし、考えようではなかなかかわいいまた美しい小動物であるのに、どうしてこれが、この虫に対しては比較にならぬほど大きくて強い人間にこうした畏怖《いふ》に似た感情を吹き込むかがどうしてもわからない。
何かしら人間の進化の道程をさかのぼった遠い祖先の時代の「記憶」のようなものがこの理由不明の畏怖|嫌忌《けんき》と結びついているのではないかという疑いが起こし得られる。猿《さる》や鳥などが、その食料とするいろいろの昆虫《こんちゅう》の種類によって著しい好ききらいがあって、その見分けをある程度までは視覚によってつけるらしいということが知られている。それでたとえばわれらの祖先のある時代に芋虫や毛虫を食ってひどい目に会ったという経験が蓄積しそれが遺伝した結果ではないかという気もするが、そうした経験の記憶が遺伝しうるものかどうか自分は知らない。ただそんなことでも考えなければちょっと他に説明の可能性が考えられないではないかと思われる、それほどにこの嫌忌の起原が自分には神秘的に思われるのである。
蛙《かえる》をきらいこわがる人はかなりたくさんある。それから蜘蛛《くも》や蟹《かに》をきらう人も知人のうちにある。昔からの言い伝えでは胞衣《えな》を埋めたその上の地面をいちばん最初に通った動物がきらいになるということになっている。なるほど上にあげた小動物はいずれも地面の上を爬行《はこう》する機会をもっているから、こういう俗説も起こりやすいわけであろうが、この説明は科学的には今のところ全然問題にならない。所を異にした胞衣《えな》とそのもとの主との間につながる感応の糸といったようなものは現在の科学の領域内に求め得られるはずはないからである。
ことによると、この「嫌忌《けんき》の遺伝」は、正当の意味での遺伝として生
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