なことをやる。そのときに足踏みならしてたぬきの歌う歌の文句が、「こいさ(今宵《こよい》の方言)お月夜で、お山踏み(たぶん山見分《やまけんぶん》の役人のことらしい)も来まいぞ」というので、そのあとに、なんとかなんとかで「ドンドコショ」というはやしがつくのである。それを伯母が節おもしろく「コーイーサー、(休止)、オーツキヨーデー、(休止)、オーヤマ、フーミモ、コーマイゾー」というふうに歌って聞かせた。それを聞いていると子供の自分の眼前には山ふところに落ち葉の散り敷いた冬木立ちのあき地に踊りの輪を描いて踊っているたぬきどもの姿がありあり見えるような気がして、滑稽《こっけい》なようで物すごいような、なんとも形容のできない夢幻的な気持ちでいっぱいになるのであった。
 後年夏目先生の千駄木《せんだぎ》時代に自筆絵はがきのやりとりをしていたころ、ふと、この伯母《おば》のたぬきの踊りの話を思い出して、それをもじった絵はがきを先生に送った。ちょうど先生が「吾輩《わがはい》は猫《ねこ》である」を書いていた時だから、さっそくそれを利用されて作中の人物のいたずら書きと結びつけたのであった。
 それはとにかく、この「山火事と野猪《やちょ》」の詩や、「たぬきの舞踊」の詩には現代の若い都人士などには想像することさえ困難であろうと思われるような古い古い「民族的記憶」といったようなものが含まれているような気がする。それは万葉集などよりはもっと古い昔の詩人の夢をおとずれた東方原始民の詩であり歌であったのではないかと思われるのである。そうした詩が数千年そのままに伝わって来ていたのがわずかにこの数十年の間に跡形もなく消えてしまうのではないかと疑われる。
 グリムやアンデルセンは北欧民族の「民族的記憶」のなごりを惜しんで、それを消えない前によび返してそれに新しい生命を吹き込んだ人ではないかと想像される。
 近ごろわが国でも土俗学的の研究趣味が勃興《ぼっこう》したようで誠に喜ばしいことと思われるが、一方ではまたここに例示したような不思議な田園詩も今のうちにできるだけ収集し保存しまたそれを現在の詩の言葉に翻訳しておくことも望ましいような気がするのである。

     四 食堂骨相学

 ある大衆的な食堂で見知らぬ人たちと居並んで食事をしていた。自分は耳がよくないせいか、それとも頭がぼんやりしているせいか、平生は
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