にまた動物の挙動や人間の生理状態のごとき綜合的の表現をも材料としたり。かくのごとき材料も場合によりてはあえて非科学的とは称し難きも、とにかく物理学的方法を応用する場合の独立変数としては不適当なるものなりしなり。今日の気象学においていわゆる気象要素と称するものはこれに反して物理学の基礎の上に設定されたるものにして、これらを材料とせる予報は純然たる物理学的の予報に外ならず。従って物理学上の予報につきて感ぜらるる困難もまた同時に随伴し、ことに条件の多数なるためにその困難は一層増加すべし。かくのごとき場合にはいわゆる主要条件の選択が重要なるは既に述べたるがごとし。現今の物理学的気象学の立場より考えて、今日のいわゆる要素の数は大体において理論上主要の項を悉《しっ》したりと考えらる。しかるに実用上の問題は如何なる程度までこれらの要素を実測し得るかという事なり。測候所の数には限りあり、観測の範囲、回数にも限定あり。特に高層観測のごとき一層この限定を受くる事甚だし。それにもかかわらず現に天気予報がその科学的価値を認められ、実際上ある程度まで成効しおるは如何なる理由によるべきか。
数十里、数百里を距《へだ》てたる測候所の観測を材料として吾人はいわゆる等温線、等圧線を描き、あるいは風の流線の大勢を認定す。この際吾人の行為に裏書きする根拠はいずこにありやというに、第一にこれら要素の空間的時間的分布が規則正しきという事なり。換言すれば、これら要素の時間的空間的微分係数が小なりという事なり。これが小なる時に等温線や等圧線は有意義となり、これに物理学上の方則が応用さるるなり。
今鋭敏なる熱電堆をもって気温を測定する時は、如何なる場合にも一尺を距てたる二点の温度は一般に同じからず。この差は数秒あるいは数分の不定なる週期をもって急激に変化するを見出すべし。すなわち小規模、短週期の変化を特に注意すれば上の微分係数は決して小ならず。かくのごとき眼より見れば、実際の等温線は大小無数の波状凹凸を有しこれが寸時も止まらず蠢動《しゅんどう》せるものと考えざるべからず。かくのごとき状態を精密に予報する事はいかなる気むずかしき世人もあえて望まざるべし。しかし今少しく規模を大きくして一村、一市街の幅員と同程度なる等温線の凹凸やその時間的変化となれば、既に世人の利害に直接間接の交渉を生ずるに至る事あり。積雲の集団がある時間内にある村の上を多く過ぐるか少なく過ぐるかは、時にはその村民にとりてはかなり重大なる場合もあるべし。小区域の驟雨《しゅうう》が某市街を通過するか、その近郊のみを過ぐるかはその市民にとりては無差別にはあらず。しかれどもかくのごとき小規模の現象の予報をなし得るためには、(この予報が可能としても)少なくも測候所の数を現在の数百倍数千倍に増加せざるべからず。
現在の天気予報はかくのごとき要求を充たすためのものにあらず。各測候所の平均領域の幅員に比して微細なる変化は度外視し、定時観測期間の長さに比して急激なる変化をも省略して近似的等温線あるいは等圧線を引くに過ぎず。例えば土地山川の高低図を作る際に、道路の小凹凸、山腹の小さき崖崩れを省略するに同じ。これを省《はぶ》くとも鉄道運河の大体の設計にはなんらの支障を生ずる事なかるべし。これに反して荷車を挽《ひ》く労働者には道路の小凹凸は無意味にあらず。墓地の選定をなさんとする人には山腹の崖崩れは問題となるべし。
世人の天気予報に対する誤解と不平は畢竟《ひっきょう》この点に係る。二十万分の一の地図を手にして道路の小凹凸を索《もと》め、物体の温度を知りてその分子各箇の運動を知らんとすると同様なる誤解に起因す。
四
次に地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報は果して可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
地震が如何にして起るやは今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時に起る現象なるがごとし。これが起ると否とを定むべき条件につきては吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気の場合における気象要素のごときものがいまだ明らかに分析されず。この点においても既に天気の場合と趣を異にするを見る。
地殻の歪《ひず》みが漸次蓄積して不安定の状態に達せる時、適当なる第二次原因例えば気圧の変化のごときものが働けば地震を誘発する事は疑いなきもののごとし。故に一方において地殻の歪みを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉《ちしつ》するを得れば地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は如何なる程度まで実現され得べきか。
地下の歪みの程度を測知する事はある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知る事も可能なるべし。今仮りにこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
更に事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一箇所に止まり、地震が起るとせば必ずその点に起るものと仮定せん。且つまた第二次原因の作用は毫《ごう》も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的の場合においても地震の突発する「時刻」を予報する事はかなり困難なるべし。何となれば、この場合は前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は吾人の測知し得るマクロスコピックの状態よりは、むしろ吾人にとりては偶然なるミクロスコピックの状態に依りて定まると考えらるるが故なり。換言すればマクロスコピックなる原因の微分的変化は結果の有限なる変化を生ずるが故なり。この場合は重量を加えて糸を引き切る場合に類す。しかしともかくも歪みが増すに従って現象の発生を期待する公算の増加するは勿論にて、従って歪みがある程度に達するまでは現象は起らずと安心すべき根拠を与うべし。この場合に当り、時とともに現象の発生に対する期待の増加する状況を示す線が与えられたりとせよ。しかしてこの曲線の傾斜が甚だ緩やかにして十年二十年あるいは人間一代の間に著しき変化を示さぬごときものならば如何なるべきか。この場合には箇々の人間にとりての予報の実用的価値は極めて少なかるべし。
次に上の仮想的の場合において現象の発生する時期がある程度まで知られたりと仮定せよ。この場合に起る地震の強弱の度を如何ほどまで予知し得べきか。単に糸を引き切る場合ならば簡単なれども、地殻のごとき場合には破壊の起り方には種々の等級あるべし。破壊がただ一回に終らず、数回の段階的変化によるとすれば、これらの推移中に歪みの変化は複雑に起り、場合によりては毎回地震の強度は微弱なる事もあるべく、また時にはその中に強震を生ずる事もあるべし。かくのごとき差別が偶然的局部的の異同に支配さるるとせば、広区域にわたるマクロスコピックの平均状態を知るのみにては信憑《しんぴょう》すべき実用的の予報は不可能に近し。
上記のごとき地殻の弱点が一箇所に止まらず、多数に分布されいる場合には更に困難なり。この場合には第一にこれらの分布を知り、またすべての弱点に対する歪みの限界値を知り、同時にすべての弱点における歪みの刻々の現状を知るを要す。仮りにこれらが知られたりとするも、多数の弱点が同時に不安定に近づく時、そのいずれが先ず変化を始むべきかはいわゆる偶然の決する所なるべし。この場合においても予報の意味は世人の期待と甚だしく離反すべし。
実際の地殻においてはその弱点の分布は必ずしも簡単ならず、しかもおのおのの弱点は相互に独立ならず、なんらかの関係を有すべく、特に一層事柄を複雑にするは、地殻岩石の弾性履歴効果の著しき事なり。これらがことごとく知られたりとするも、現象の性質上、原因の微分的変化に対して、結果の変化は有限にして且つその単義性も明らかならず。具体的に云えば地辷《じすべ》り等がある限界内に止まれば、それだけにて止むも、少しにてもこれを超ゆれば他の弱点の破壊を誘起して更に大なる変動を起す事もあるべく、その際如何なる弱点が誘発さるるやはまた偶然的なる地下の局部的構造によると考えらる。
かくのごとき場合に普通の簡単なる公算論の結果を応用せんとするには至大の注意を要する事は明らかなるべし。
五
予報の可能不可能という事は、考え方によればあまりに無意味なる言葉なり。例えば今月中少なくも各一回の雨天と微震あるべしというごとき予報は何人も百発百中の成効を期して宣言するを得べし。ここに問題となるは予報の実用的価値を定むべき標準なり。
予報によりて直接間接に利便を感ずべき人間の精神的物質的状態は時並びに空間とともに変化しつつあり。従って天然界のある状態がその人間に有利なるか不利なるかは時と場所とによりて変化す。例えば水草を追って移牧する未開人にとりては時とともに利害の係る土地の範囲を移動す。また一つの都府の市民というごとき抽象的の団体を考うる時はその要素たる各個人とは独立に時とともに不変なる標準も考えらるれども、一般には必ずしも然らず。例えば一般の東京市民にとりては、夜半の小雨はあえて利害を感ぜざるべきも昼間の雨には無頓着ならず。また平日一般の日本国民は京都市の晴雨に対しては冷淡なるも、御大典《ごたいてん》当時は必ずしも然らざるべし。
数学的の言葉を借りて云えば、各個人、市民、あるいは国民がある現象に対して利害を感ずる範囲は時間と空間とより組成されたる四元空間中において、ある面にて囲まれたる部分にて示す事を得べし。この部分は単独なる場合も、数箇なる場合もあるべし。
自然現象の予報もまた同様に、時と空間のある範囲内に指定する時に始めて意義あるものとなる。例えば明日中某々地方に降雨あるべしというがごとし。これらの予報が普通世人にとりて実用的価値を有するための条件は、思うに「その現象のために利害を感ずべき個人あるいは団体の利害を感ずる範囲領域の大きさに対して、予報の指定する範囲の大きさが比較的大ならず、且つ前者に対する後者の位置の公算的変化の範囲の小なる事」なり。
具体的の例を挙ぐれば、東京市民にとりては「明日正午まで京浜地方西北の風晴」と云い、あるいは「本日午後驟雨模様あり」というがごときは多数の世人に有用有意義なり。またもし「一週間内に東海道の大部分に降雨あるべし」との予報をなし得たりとせば、東京市民にとりては極めて漠然たる印象を与うべし。これ予報の範囲が東京市民の日常生活上雨に関して利害を感ずる範囲に比してあまりに大なるが故なり。しかれども連日雨に渇する東海道の農民にとりては、この予報は非常の福音たるに相違なかるべし。
次に地震の場合は如何。もし仮りに「来る六、七月の頃、東京地方に破壊的地震あるべし」との予報が科学的になし得られたりと仮定せよ。これが十分の公算を有する事が明らかなれば、市民は十分の覚悟をもって変に備うべし。次に「今後五十年内に日本南海岸のうち一部分に強震あるべし」という事がよほど確実なりと仮定せよ。この予報は各箇の市民にとりては幾分漠然たる予言者の声を聞くがごとき思いあるべし。五十年は個人の生命に対してあまりに短からず。その間に個人の生命も住所も如何になるべきか明らかならざるなり。しかれども日本政府の眼より見れば五十年は決して長からず、南海岸は邦土の一部分なり。この予報がなし得らるれば、これによりて国家が享《う》くべき直接間接の利益は少なからざるべし。
噴火の場合もこれに同じ。仮りに科学的に信憑《しんぴょう》すべき根拠よりして、来る六十年ないし七十年間に某火山系に活動を予期し得るとせば、個人に対してはともかく、一県一道の為政者にとりては多大の参考となるべし。
予報者と被予報者との意志の疎通せざる手近き原因は、予報の指定する範囲と被予報者の利害範囲の大きさの相違と、その公算的不整合を許容する程度の差異に帰すべしと思わる。
最後に卑近なる例を挙げて所説を補わん。木の葉をつたい歩く蟻にとりては一粒一粒の雨滴の落つる範囲を方数ミリメートルの内に指定する事が必要なれども、吾人人間には多くの場合にただ雨量と称する統計的の数量が
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