て少し離れて見ると著しく見えた。六尺の筆を使う意味が少しわかりかけたのである。
どうにか顔らしいものができた時にはそれが奇妙にも自分の知っている某○学者によく似ていた。そうとも知らず家内のある者がこの絵を見て「大工か左官のような顔だ」といった。
それから毎日いろいろと直して変化させている間に、いつのまにかまたこの同じ大工の顔がひょっくり復帰して来るのが不思議であった。会いたくないと思ってつとめて避けている人に偶然出くわすような気がしばしばした。ある日思い切って左の頬《ほお》をうんと切り落としてから後はこの不思議な幽霊に脅かされる事は二度となくなった。
いつまでやってもついにできあがる見込みはなさそうに思われだした。ある日K君にこのごろ得たいろいろの経験を話しているうちに同君が次のような事を注意した。「いったい人間の顔は時々刻々に変化しているのをある瞬間の相だけつかまえる事は第一困難でもあるし、かりにそれを捕えて表現したとしても、それはその人の像と言われるだろうか」というような意味であった。そういうふうに考えてみると、単に早取り写真のようなものならば技巧の長い習練によって仕上げられうるものかもしれないが、ある一人の生きた人間の表現としての肖像は結局できあがるという事はないものだとも思われた。あるいはその点に行くとかえって日本画の似顔とかあるいは漫画のカリカチュアのほうが見込みがありそうに思われた。それほどではなくてもまつ毛一本も見残さずかいた、金属製の顔にエナメルを塗ったような堅い堅い肖像よりは、後期印象派以後の妙な顔のほうが少なくもねらい所だけはほんとうであるまいかと思われてくる。この考えをだんだんに推し広げて行くと自然に立体派や未来派などの主張や理論に落ちて行くのではあるまいか。
仕上がるという事のない自然の対象を捕えて絵を仕上げるという事ができるとすれば、そこには何か手品の種がある。いったい顔ばかりでなく、静物でもなんでも、あまり輪郭をはっきりかくと絵が堅すぎてかえって実感がなくなるようである。たとえばのうぜんの葉を一枚一枚はっきりかいてみると、どうもブリキ細工にペンキを塗ったような感じがする。これは自分の技巧の拙なためかと思うが、しかし存外大家の描いたのでもそんなのがありやすい。これに反してわざと輪郭をくずして描くと生気が出て来て運動や遠近を暗示する。
前へ
次へ
全19ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング