ると片方の小鼻が途方もなくたれ下がっているのを手近で見る時には少しも気づかなかったりする。
 不思議な事にはこのように毎日見つめている絵の中の顔がだんだんに頭の中にしみ込んで来てそれがとにかく一人の生きた人間になって来る。それは自分のようでもあるしまた他人のようでもある。時としては絵の顔のほうがほんとうの自分で鏡の中のがうそのような気がする。特に鏡と画面とから離れて空で考える時には、鏡の顔はいつでも影が薄くて絵の顔のほうが強い強い実在となって頭の中に浮かんで来るのである。これではだめだと思った。絵を見つめる時間をなるべく減じて鏡を見る時を長くしなければいけないと思った。
 絵の中にいる人間とかいている自分との間には知らず知らずの間に一種の同情のようなものが生じて来るような気がしだした。画像が口をゆがめて来ると、なんだか自分も口をゆがめなくてはいられなくなるようであった。自分が目を細くしていると画像もいつのまにかそうするように思われた。絵の顔が気持ちのいい日はなんだか愉快であるが、そうでない日は自分もきげんがよくなかった。
 調子のごくごくいい日にはいいかげんに交ぜる絵の具の色や調子がおもしろいようにうまくはまって行く。絵の具のほうですっかり合点《がてん》してよろしくやってくれるのを、自分はただそこまで運んでくっつけてやっているだけのような気がする。こんな時にはかなり無雑作《むぞうさ》に勢いよく筆をたたきつけるとおもしろいように目が生きて来たり頬《ほお》の肉が盛り上がったりする。絵の具と筆が勝手気ままに絵をかいて行くのを自分はあっけに取られて見ているような気がするのである。こんな時には愉快に興奮する。庭を見ても家内の人々の顔を見ても愉快に見え、そうして不思議に腹がよくへって来る。
 これに反してぐあいの悪い日は絵の具も筆も、申し合わせて反逆を企て自分を悩ますように見える。色が濃すぎたと思って直すときっと薄すぎる。直しているうちに輪郭もくずれて来るし、一筆ごとに顔がだんだん無惨に情けなく打ちこわされて行く。その時の心持ちはずいぶんいやなものである。早く中止すればいいと思わない事はないが、そういう時に限って未練が出てやめるに忍びない。ちょうど来客でもあってやむを得ず中止する時には、困ったという感じと、ちょうどいい時に来てくれたという考えとがいっしょになる。客が帰るとできそ
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