めたのであるが、どういうものか下図をかいているうちに思ったより小さくなってしまった。自分が大きくしようと思っているのに手と鉛筆とがそれを押え押えて顔を縮めて行くようにも思われた。実物に近いほどに書くつもりのがいつのまにか半分足らずぐらいのものになった。実物と思って見ているのが実は鏡の中の虚像で鏡より二倍の距離にあるから視角はかなり小さくなっている。それに画布のほうは手近にあるものだから、たとえ映像と絵と同じ視角にしても寸法は実物の半分以下になるわけだと思われる。それにしても人が鏡を見て自分の顔というものの観念をこしらえているが、左右|顛倒《てんとう》の事実は別として顔の大きさというものに対しても正当な観念を得る事はおそらく非常に困難だろうと思われだした。つまりわれわれはほんとうの自分の顔というものは一生知らずに済むのだという気さえした。自分の事は顔さえわからないのだ。だれかが「自分の背中だけは一生触れられない」と言った事を思い出す。
下図をすっかり消してかき直すのもめんどうであったし、またこのくらいの大きさのも一枚あっていいと思ってそのまま進行する事にした。妻と長女とに下図を見せて違った所を捜させるとじきにいろいろな誤りが発見された。他人が見ればそんなにたやすく見つかるような間違いが、かいている自分にはなかなかわからないのであった。
下図はとうとうあまりよく似ないままで絵の具をつけ始めた。かいて行くうちによくなるだろうと思ったが、なかなかそう行かない事はあとでだんだんにわかって来た。
もちろん顔から塗り始めた。始めにだいたいの肉色と影をつけてしまった時には、似てはいないがたいへん感じのいいような顔ができたのでこれは調子がいいと思って多少気乗りがして来た。そしてだんだんに細かく筆を使って似せるほうと色の調子とに気を配り始めるとそろそろむつかしくなる事が予覚されるようになって来た。まず第一に困った事は局部局部を見て忠実に写しているといつのまにか局部相互の位置や権衡が乱れてしまう。右の目の格好を一生懸命にかいてだいたいよくなったと思って少し離れて見るとその目だけが顔とは独立に横に脱線したりつり上がりねじれなどした。どうも右をかいている時と左をかいている時とで顔の傾斜が変わる癖があるらしかった。そのために左右の目は互いに自由行動をとってどうしても一つの顔の中に融和しな
前へ
次へ
全19ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング