ようであるが、それでもまだこの門衛の失職する心配は当分なさそうである。感官を無視する科学者も時にはにおいで物質を識別する。むつかしやの隠居は小松菜《こまつな》の中から俎板《まないた》のにおいをかぎ出してつけ物の皿《さら》を拒絶する。一びん百円の香水でもとにかく売れて行くのである。一方ではまた、嗅覚《きゅうかく》と性生活との関係を研究している学者もあるくらいである。
 嗅覚につながる記憶ほど不思議なものはないように思う。たとえば夏の夕に町を歩いていて、ある、ものの酸敗したような特殊なにおいをかぐと、自分はどういうものかきっと三つ四つのころに住んでいた名古屋《なごや》の町に関するいろいろな記憶をよび起こされる。たとえばまた、銀座《ぎんざ》松屋《まつや》の南入り口をはいるといつでも感じられるある不思議なにおいは、どういうものか先年アンナ・パヴロワの舞踊を見に行ったその一夕の帝劇《ていげき》の観客席の一隅《いちぐう》に自分の追想を誘うのである。
 郷里の家に「ゴムの木」と称する灌木《かんぼく》が一株あった。その青白い粉を吹いたような葉を取って指頭でもむと一種特別な強い臭気を放つのである。この木
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