き葉は、やはり今でも日本にあるにはあるのである。精霊棚《しょうりょうだな》を設けて亡魂を迎える人はやはり今でもあるのである。これがある限り日本はやはり日本である。そんな事を話しながら一九三三年の銀座を歩くのであった。
三 熱帯魚(その一)
百貨店の花卉部《かきぶ》に熱帯魚を養ったガラス張りの水槽《すいそう》が並んでいる。暑いある日のことである。どう見ても金持ちらしい五十格好のあぶらぎった顔をした一人の顧客が、若い店員を相手にして何か話している。水槽につけた紙札に魚の名と値段が書いてある。目高《めだか》ぐらいの魚が一尾二十五円もするのである。金持ちらしい客は「フム、これは安いねえ」「安いんだねえ」と繰り返しながらしきりに感心している。若い店員は心持ち顔を長くしたようであったが、「はあ、……比較的に」と答えた。そうして、ずうっと胸をそらしたのであった。
四 熱帯魚(その二)
いろいろな熱帯魚をよく見ていると、種類によってやはり一挙一動にそれぞれの特徴があるように思われて来る。それを些細《ささい》に観察していると三十分ぐらいの時間をつぶすのははなはだ容易である。
熱帯魚を見物したあとで、とある映画館へはいった。おりから映し出された映画は「三万両五十三次」とか題する時代劇であった。その中に、数人の浪士が、ちょこちょこと駆けずり回る場面がなんべんとなく繰り返される。なぜああいうふうにぎくしゃくした運動をしなければならないものかと思って見ているうちに、ふいと先刻見た熱帯魚を思い出した。スクリーンの長方形の格好もほぼあのガラス張り水槽と同じである。画面の灰色の雰囲気《ふんいき》が水のようにも思われる。その中を妙な格好をした浪士が、妙にちょこちょことあっちへ走り寄るかと思うと、またこっちへ駆け寄る。みんなでそろっておじぎをしたりする。それが、そう思って見ると、あの先刻見て来た熱帯魚の群れの遊泳するさまとかなりまで共通なところがあるように思われたのであった。
五 熱帯魚(その三)
喫茶店《きっさてん》の二階で友人と二人で話していた。椰子《やし》やゴムの木の鉢《はち》と入り乱れて並んだ白いテーブルを取りかこんだ人々の群れには、家族連れも多かったが、ともかくも自分らのように不景気な男ばかりの仲間はまれであるように見受けられた。
テーブル
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング