音が聞こえてくることがあった。それがやはり四拍子の節奏で「パン/\/\ヤ」というふうに響くのであった。おそらく今ではもうどこへ行ってもめったに聞かれない田園の音楽の一つであろうと思われる。
 明治二十七八年|日清戦争《にっしんせんそう》の最中に、予備役で召集されて名古屋《なごや》の留守師団に勤めていた父をたずねて遊びに行ったとき、始めて紡績会社の工場というものの見学をして非常に驚いたものである。祖母が糸車で一生涯《いっしょうがい》かかって紡ぎ得たであろうと思う糸の量が数え切れない機械の紡錘から短時間に一度に流れ出していた。そこにはあのゆるやかな抑揚ある四拍子の「子守《こも》り歌」の代わりに、機械的に調律された恒同な雑音と唸《うな》り音の交響楽が奏せられていた。
 祖母の紡いだ糸を紡錘竹《つむだけ》からもう一ぺん四角な糸繰り枠《わく》に巻き取って「かせ」に作り、それを紺屋に渡して染めさせたのを手機《てばた》に移して織るのであった。裏の炊事場《かまや》の土間の片すみにこしらえた板の間に手機が一台置いてあった。母がそれに腰をかけて「ちゃんちゃんちゃきちゃん」というこれもまた四拍子の拍音を立てながら織っている姿がぼんやりした夢のような記憶に残ってはいるが、自分が少し大きくなってからは、もうこの機はあまり使われなかったらしい。しかし自分の姉の家ではその老母がずっとあとまで、自分らの中学時代までも、この機織りを唯一の楽しみのようにして続けていた。木の皮を煮てかせ糸を染めることまで自分でやるのを道楽にしていたようである。純粋な昔ふうのいわゆる草木染めで、化学染料などの存在はこの老人の夢にも知らぬ存在であった。この老人の織ったふとん地が今でもまだ姉の家に残っているが、その色がちっともあせていないと言って甥《おい》のZが感嘆して話していた。
 いつであったか、銀座資生堂《ぎんざしせいどう》楼上ではじめて山崎斌《やまざきたけし》氏の草木染めの織物を見たときになぜか涙の出そうなほどなつかしい気がした。そのなつかしさの中にはおそらく自分の子供の時分のこうした体験の追憶が無意識に活動していたものと思われる。またことしの初夏には松坂屋《まつざかや》の展覧会で昔の手織り縞《じま》のコレクションを見て同じようななつかしさを感じた。もしできれば次に出版するはずの随筆集の表紙にこの木綿《もめん》を使い
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