る。丸竹の柄《え》の節の上のほうを細かく裂いて、それを両側から平面に押し広げてその上に紙をはり、その紙は日月の部分蝕《ぶぶんしょく》のような形にして、手もとに近いほうの割り竹を透かした、そういうものが、少なくもわれわれの子供時代からの団扇《うちわ》の定義のようなもので、それ以外のものは言わば変種のようなものであった。こういう昔の型には、研究してみたらおそらくいろいろな物理学的の長所があるだろうと思われる。このほうが風を生ずる点で、効率《エフィシェンシー》がいいという説もあるがこれは研究してみないとわからない。しかし撓《しな》いぐあいはたしかにこのほうが柔らかで、ぎごちなくないように思われる。これに反して木製の柄《え》で割り竹を無理にしめつけたのは、なんとなく手ごたえが片意地で、柄の付け根で首がちぎれやすい。
そんな理屈はどうでもよいとして、こうまでも「流行」という、えたいの知れぬ人工的非科学的な因子が、送風器械としては本来科学的であるべき器具の設計に影響を及ぼすものかと驚かれるくらいである。しかし、考えてみると、団扇や扇のようなものは元来どこまでが実用品で、どこまでが玩弄品《がんろうひん》であるか、それはわからない。玩弄品としては、年々目先が変わって、それで早くこわれてしまうほうがいいに違いない。
ただ困るのは、資本家でもなく、民衆でもなく、流行にかまわぬ趣味上のリベラリストだけであろう。しかし、机の引き出しを引っぱればあくものと思っているのが錯覚であるように、自分のほしいものが市場にあるはずだと思うのはやはりはなはだしい錯覚であるに相違ない。
三 捜すものは無い
捜さない時には、邪魔なほどに目の前にころがっているものが、いざ入用となって捜すときはなかなか見つからない。こういう気のする人は少なくないであろう。
そういう特別な場合の記憶だけが残存蓄積するせいもあろう。捜してすぐにあった場合は忘れるからである。
しかし、また、実際、特別緊急な捜しものをする場合には、心にこだわりがあって、自由な観察と認識の能力がいくぶん減退しているためもたしかにいくぶんかはあるらしい。
これとはまた少し趣のちがった「捜すものは無い」場合がある。
大きな書店の陳列棚《ちんれつだな》をひやかしていると、実にたくさんの本がある。俳句の本、山登りの本、唯物論的弁証法の
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