園《わらくえん》の前に釣を垂れている中折帽の男がある。雑喉場《ざこば》の前に日本式の小さい帆前が一艘ついて、汀《みぎわ》には四、五人ほど貝でも拾っている様子。伝馬に乗って櫂《かい》を動かしている女の腕に西日がさして白く見える。どうやら夏のようにも思われる。貴船社《きぶねしゃ》の前を通った時は胸が痛かった。玉島のあたりははらかた釣りが夥《おびただ》しいが、女子供が大半を占めている。種崎の渡しの方には、茶船の旗が二つ見えて、池川の雨戸は空しく締められてこれも悲しい。孕《はらみ》の山には紅葉が見えて美しい。碇を下ろして皆端艇へ移る。例のハイカラは浜行の茶船へのる。自分は蚕種検査の先生方の借り切り船へ御厄介になった。須崎のある人から稲荷新地《いなりしんち》の醜業婦へ手紙を託されたとか云って、それを出して見せびらかしている。得月楼《とくげつろう》の前へ船をつけ自転車を引上げる若者がある。楼上と門前とに女が立ってうなずいている。犬引も通る。これらが煩悩の犬だろう。松《まつ》が端《はな》から車を雇う。下町《しもまち》は昨日の祭礼の名残で賑やかな追手筋《おうてすじ》を小さい花台をかいた子供連がねって行く。西洋の婦人が向うから来てこれとすれちがった。牧牛会社の前までくると日が入りかかって、川端の榎《えのき》の霜枯れの色が実に美しい。高阪橋《たかさかばし》を越す時東を見ると、女学生が大勢立っていると思ったが、それは海老茶色の葦を干してあるのであった。[#地から1字上げ](明治三十四年十一月)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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