汽船が見えました。今日御帰りで御ざいますそうな」と御八重《おやえ》が来る。これはちと話の順序がちがっているようだ。料理人篠村宇三郎、かご入りの青海苔《あおのり》を持って来て、「これは今年始めて取れましたので差上げます。御尊父様へよろしく」と改まったる御挨拶で。そのうち汽船の碇《いかり》を下ろす音が聞えて汽笛一声。「サアそろそろ出掛けようか。」「御荷物はこれだけで。」「イヤコレハ私が持って行こう。サヨーナラ。」「また御早うに……。」定勝さんも今日の船で帰校するとて、背嚢《はいのう》へ毛布を付けている。今日は船がよほどいつもよりは西へついている。何処の学校だか行軍に来たらしい。生徒が浜辺に大勢居る。女生の海老茶袴《えびちゃばかま》が目立って見える。船にのるのだか見送りだか二十前後の蝶々髷《ちょうちょうまげ》が大勢居る。端艇へ飛びのってしゃがんで唾《つば》をすると波の上で開く。浜を見るとまぶしい。甲板へ上がってボーイに上等はあいているかと問うとあいているとの事、荷物と帽を投げ込んで浜を見ると、今端艇にのり移ったマントの一行五、六人、さきの蝶々髷の連中とサヨーナラといっているのが聞える。蚕種《さんしゅ》検査の御役人が帰るのだなと合点がいった。宿の定さんも、二階で泊った女づれのハイカラも来る。頬の恐ろしく膨《ふく》れた、大きなどてらを着た人相のよくない男が艫《とも》の甲板の蓆《むしろ》へ座をしめてボーイの売りに来た菓子を食っている。その向いに坐った目の赤いじいさんと相撲《すもう》の話をしている。あるいは相撲取かも知れぬが髪は二月前に刈ったと云う風である。その隣には五、六人、若い娘も二人ほど交じっている。機関長室には顔の赤い人の好さそうなのが航海日誌と云いそうなものへ何か書いている。ここへ色の青い恐ろしく痩せた束髪の三十くらいの女をつれた例の生白いハイカラが来て機関長と挨拶をしていたが、女はとうとうこの室の寝台を占領した。何者だろう。黒紋付をちらと見たら蔦《つた》の紋であった。宿の二階から毎日見下ろして御なじみの蚕種検査の先生達は舳《へさき》の方の炊事場の横へ陣どって大将らしき鬚《ひげ》の白いのが法帖様《ほうじょうよう》のものを広げて一行と話している。やっと出帆したのが十二時半頃。甲板はどうも風が寒い。艫の処を見ると定さんが旗竿へもたれて浜の方を見ながら口笛を吹いているからそこ
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