う声々が空からも地からも沸き上がる。シャン/\/\と雪ぞりの鈴が聞こえ、村の楽隊のセレネードに二階の窓からグレーチヘンが顔を出す。たわいもない幻影を追う目がガラス棚《だな》のチョコレートに移ると、そこに昔の夢のビスケット箱の中のメールコーチが出現し、五十年前の父母の面影がちらつき、左団次の知盛《とももり》が髪を乱して舞台に踊るのである。コーヒーの味のいちばんうまいのもまたそういうときである。
雪や寒い雨の日にコーヒーのうまいのはどういうわけであるか気象学者にも生理学者にもこれはわからない。空気が湿っていて純粋な「渇《かわき》」を感じないために、余裕のできた舌の感覚が特別繊細になっているためかもしれないと思われる。
銀座《ぎんざ》でコーヒーを飲ませる家は数え切れないほどたくさんあるが、家ごとにみんなコーヒーの味がちがう。そうして自分でほんとうにうまいと思うコーヒーを飲ましてくれる家がきわめて少ない。日本の東京の銀座も案外不便なところだと思うことがある。日本でのんだいちばんうまいコーヒーはずっと以前にF画伯がそのきたない画室のすみの流しで、みずから湯を沸かしてこしらえてくれた一杯のそれであった。
コーヒーに限らず、デパートの商品でも、あのようにたくさんにあるものの中で自分の趣好に適合するものの少ないのに困ることがしばしばある。コーヒー茶わんとか灰皿《はいざら》とかのこわれた代わりを買いに行っても、近ごろのものには、大概たまらなくいやだと思うような全く無益な装飾がしてあってどうにも買う気になれないのである。ネクタイがあまり古ぼけたので一つ奮発しようと思って物色しても、あのたくさんな商品の中にこれをと思って手の出るのはまれである。これは自分の趣味|嗜好《しこう》が時代に遅れたという事実を証明する以外になんらの意味もない些事《さじ》ではあろうが、この一些事はやはりちょっと自分にものを考えさせる。こういう時にわれわれがもしも、自分のいちばんいやなようないちばん新しい傾向の品を買って来て我慢して使ってみていると、おしまいには案外それが好きになるかもしれない。殺風景だと思っていたコンクリートの倉庫も見慣れると賤《しず》が伏屋《ふせや》とはまたちがった詩趣や俳味も見いだされる。昭和模様のコーヒー茶わんでも慣れればおもしろくなるかもしれない。それがおもしろくなるまでの我慢がしきれないで、近ごろの若い者はを口癖にいうのは、畢竟《ひっきょう》もう先が短くなった証拠かもしれない。もしも、これで百歳まで生きる覚悟があったら、自分はやっぱり奮発していやな品に慣れる努力をするであろう。時代のアルプスを登るにはやはり骨が折れる。自分もせいぜい長生きする覚悟で若い者に負けないように銀座《ぎんざ》アルプスの渓谷《けいこく》をよじ上ることにしたほうがよいかもしれない。そうして七十歳にでもなったらアルプスの奥の武陵《ぶりょう》の山奥に何々会館、サロン何とかいったような陽気な仙境《せんきょう》に桃源《とうげん》の春を探って不老の霊泉をくむことにしよう。
八歳の時に始まった自分の「銀座の幻影」のフィルムははたしていつまで続くかこればかりはだれにもわからない。人は老ゆるが自然はよみがえる。一度影を隠した銀座の柳は、去年の夏ごろからまた街頭にたおやかな緑の糸をたれたが、昔の夢の鉄道馬車の代わりにことしは地下鉄道が開通して、銀座はますます立体的に生長することであろう。百歳まで生きなくとも銀座アルプスの頂上に飛行機の着発所のできるのは、そう遠いことでもないかもしれない。しかしもし自然の歴史が繰り返すとすれば二十世紀の終わりか二十一世紀の初めごろまでにはもう一度関東大地震が襲来するはずである。その時に銀座《ぎんざ》の運命はどうなるか。その時の用心は今から心がけなければ間に合わない。困った事にはそのころの東京市民はもう大地震の事などはきれいに忘れてしまっていて、大地震が来た時の災害を助長するようなあらゆる危険な施設を累積していることであろう。それを監督して非常に備えるのが地震国日本の為政者の重大な義務の一つでなければならない。それにもかかわらず今日の政治をあずかっている人たちで地震の事などを国の安危と結びつけて問題にする人はないようである。それで市民自身で今から充分の覚悟をきめなければせっかく築き上げた銀座アルプスもいつかは再び焦土と鉄筋の骸骨《がいこつ》の砂漠《さばく》になるかもしれない。それを予防する人柱の代わりに、今のうちに京橋と新橋との橋のたもとに一つずつ碑石を建てて、その表面に掘り埋めた銅版に「ちょっと待て、大地震の用意はいいか」という意味のエピグラムを刻しておくといいかと思うが、その前を通る人が皆円タクに乗っているのではこれもやはりなんの役にも立ちそうもない。むし
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