心をするということはおよそ近代的でないらしい。
暴風の跡の銀座《ぎんざ》もきたないが、正月|元旦《がんたん》の銀座もまた実に驚くべききたない見物《みもの》である。昭和六年の元旦のちょうど昼ごろに、麻布《あざぶ》の親類から浅草《あさくさ》の親類へ回る道順で銀座を通って見たときの事である。荒涼、陰惨、ディスマル、トロストロース、あらゆる有り合わせの形容詞の総ざらえをしても間に合わない光景である。いつもは美しく飾り立てた小売り店の表には、実に見すぼらしい明治時代の雨戸がしめてある。大商店のショウウィンドウにははげさびた鎧戸《よろいど》か、よごれた日除幕《ブラインド》がおりている。死に物狂いの大晦日《おおみそか》の露店の引き上げた跡の街路には、紙くずやら藁《わら》くずやら、あらゆるくずという限りのくず物がやけくそに一面に散らばって、それがおりからのからび切った木枯らしにほこり臭い渦《うず》を巻いては、ところどころの風陰に寄りかたまって、ふるえおののきあえいでいるのである。言わば白粉《おしろい》ははげ付け髷《まげ》はとれた世にもあさましい老女の化粧を白昼烈日のもとにさらしたようなものであったのである。
これに反してまた、世にも美しいながめは雪の降る宵《よい》の銀座の灯《ひ》の町である。あらゆる種類の電気照明は積雪飛雪の街頭にその最大能率を発揮する。ネオンサインの最も美しく見えるのもまた雪の夜である。雪の夜の銀座はいつもの人間臭いほこりっぽい現実性を失って、なんとなくおとぎ話を思わせるような幻想的な雰囲気《ふんいき》に包まれる。町の雑音までが常とは全くちがった音色を帯びて来る。ショウウィンドウの中の品々が信じ難いような色彩に輝いて見えるのである。そういうときに、清らかに明るい喫茶店《きっさてん》にはいって、暖かいストーブのそばのマーブルのテーブルを前に腰かけてすする熱いコーヒーは、そういう夢幻的の空想を発酵させるに適したものである。
中学校で教わったナショナルリーダーの「マッチ売りの娘」の幻覚のように、大きなクリスマストリーが、神秘的に光り輝く霧の中に高く浮かみ上がる。あらゆる過去へのあこがれと、未来への希望とがその樅《もみ》の小枝の節々につるされた色さまざまの飾り物の中からのぞいているのである。寺々の鐘が鳴り渡ると爆竹がとどろいてプロージット、プロージットノイヤールとい
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