によっては去年の事が十年前のようにも思われる。ひとつながりの記憶の蛇形池《サーペンタイン》の中で「記憶の対流《コンヴェクション》」とでもいったようなものが行なわれるらしい。
 第三線にはかなりの幅がある。自分が世間に踏み出してからの全生涯《ぜんしょうがい》がこの線の中に含まれているからである。そうしてこの線を組織するきわめて微細な繊維のようになった自分の「銀座《ぎんざ》線」とでもいったようなものがあり、これが昔の※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]の中の銀座の夢につながっているのである。この※[#二分ダーシ、1−3−92]※[#二分ダーシ、1−3−92]の中では銀座というものが印象的にはかなり重要な部分を占めていた、それの影響が後年の――の中の自分の銀座観に特別の余波を及ぼしていることはたしかである。
 震災以後の銀座には昔の「煉瓦《れんが》」の面影はほとんどなくなってしまった。第二の故郷の一つであったIの家はとうの昔に一家離散してしまったが家だけは震災前までだいたい昔の姿で残っていたのに今ではそれすら影もなくなってしまい、昔|帳場格子《ちょうばごうし》からながめた向かいの下駄屋《げたや》さんもどうなったか、今|三越《みつこし》のすぐ隣にあるのがそれかどうか自分にはわからない。十二か月の汁粉屋《しるこや》も裏通りへ引っ込んだようであったがその後の消息を知らない。足もとの土でさえ、舗装の人造石やアスファルトの下に埋もれてしまっているのに、何をなつかしむともなく、尾張町《おわりちょう》のあたりをさまよっては、昔の夢のありかを捜すような思いがするのである。
 谷中《やなか》の寺の下宿はこの上もなく暗く陰気な生活であった。土曜日に尾張町へ泊まりに行くと明るくて暖かでにぎやか過ぎて神経が疲れたが、谷中《やなか》へ帰るとまた暗く、寒く、どうかすると寒の雨降る夜中ごろにみかん箱のようなものに赤ん坊のなきがらを収めたさびしいお弔いが来たりした。こういう墓穴のような世界で難行苦行の六日を過ごした後に出て見た尾張町《おわりちょう》の夜の灯《ひ》は世にも美しく見えないわけに行かなかったであろう。今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。みんな心の中に何
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