を訪ねたとき、物理学教室の入口に竹の一叢《ひとむら》を見付けてなつかしい想いをした。その日の夕方、ホテルの食堂で食事のあとに出した菓物鉢の数々の果物の中にただ一つ柿の実がのっかっていた。同時に食事していた客の誰よりも真先に自分のところへこの菓物鉢が廻って来たので、自分は遠慮なくこのただ一つの柿を取上げた。少しはしたないような気はしたが、天涯の孤客だからと自分で自分に申し訳を云った。このローマの宿の一顆《いっか》の柿の郷土的味覚はいまだに忘れ難いものの一つである。
味覚の追憶などはあまり品の好い話ではないようである。しかしそれだけに原始的本能的に深刻な真実性をもっている。そうしてその背後にはやはり自分の一生涯の人間生活の記録が隠されているのである。[#地から1字上げ](昭和七年二月『郷土読本』)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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