郷土的味覚
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)寒竹《かんちく》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)熊本|鎮台《ちんだい》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そうけ[#「そうけ」に傍点]
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 日常の環境の中であまりにわれわれに近く親しいために、かえってその存在の価値を意識しなかったようなものが、ひとたびその環境を離れ見失った時になって、最も強くわれわれの追憶を刺戟することがしばしばある。それで郷里に居た時には少しも珍しくもなんともなかったものが、郷里を離れて他国に移り住んでからはかえって最も珍しくなつかしいものになる。そういう例は色々ある中にも最も手近なところで若干の食物が数えられる。その一つは寒竹《かんちく》の筍《たけのこ》である。
 高知近傍には寒竹の垣根が多い。隙間なく密生しても活力を失わないという特徴があるために垣根の適当な素材として選ばれたのであろう。あれは何月頃であろうか。とにかくうすら寒い時候に可愛らしい筍をにょきにょきと簇生《そうせい》させる。引抜くと、きゅうっきゅうっと小気味の好い音を出す。軟らかい緑の茎に紫色の隈取《くまど》りがあって美しい。なまで噛むと特徴ある青臭い香がする。
 年取った祖母と幼い自分とで宅の垣根をせせり歩いてそうけ[#「そうけ」に傍点](笊《ざる》)に一杯の寒竹を採るのは容易であった。そうして黒光りのする台所の板間で、薄暗い石油ランプの燈下で一つ一つ皮を剥《は》いでいる。そういう光景が一つの古い煤けた油画の画面のような形をとって四十余年後の記憶の中に浮上がって来るのである。自分の五歳の頃から五年ほどの間熊本|鎮台《ちんだい》に赴任したきり一度も帰らなかった父の留守の淋しさ、おそらくその当時は自覚しなかった淋しさが、不思議にもこの燈下の寒竹の記憶と共に、はっきりした意識となって甦って来るのである。
 虎杖《いたどり》もなつかしいものの一つである。日曜日の本町《ほんまち》の市で、手製の牡丹餅《ぼたもち》などと一緒にこのいたどりを売っている近郷の婆さんなどがあった。そのせいか、自分の虎杖の記憶には、幼時の本町|市《いち》の光景が密接につながっている。そうして、肉桂酒《にっけいしゅ》、甘蔗《さとうきび》、竹羊羹《たけようかん》、そう云ったよう
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