の暗示のどれでも追求して行くとほとんど無限な思索の連鎖をたぐり寄せる事ができた。そしてそれらの考えがほとんど天啓ででもあるように強く明らかに、無条件に真であって、しかもいずれもが新しい卓見ででもあるように彼には思われた。新聞の三面記事を読んでいる時でさえ時々電光のひらめくようにそのような考えが浮かんだりした。そんな時には手帳の端へ暗号のような言葉でその考えの端緒を書き止めたりしていた。しかしそのような状態はいつまでも持続するわけではなくて、これと反対な倦怠《けんたい》の状態も週期的に循環して来た。そういう時には何を読んでも空虚であった。そこに書いてある表面の意味をとらえる事すら困難であった。そうした時に手帳をあけて自分の書いてある暗号のようなものを見ると、ほとんどなんの意味をも成さない囈語《たわごと》でなければ、きわめて月並みないやみな感想に過ぎなかった。どうしてこんなつまらない考えがあれほどに自分を興奮させたか不思議に思われるのであった。それでひょっとすると自分は一種の誇大妄想狂《こだいもうそうきょう》に襲われているのではないかと思って不安を感じる事もあった。そういう時の彼はみじめな状態にあった。世界を埋め尽くした泥《どろ》の底に自分がうごめいているような気がしていた。しかし再び興奮の発作が来ると彼の頭は霊妙な光で満ち渡ると同時に、眼界をおおっていた灰色の霧が一度に晴れ渡って、万象が透き通って見えるのである。
このように週期的に交代する二つの世界のいずれがほんとうであるかを決定したいと思って迷っていた。――おそらく彼は生涯《しょうがい》このわかりきったようで、しかも永久に解く事のできないなぞを墓の中まで持ち込むかもしれなかった。
彼の生活が次第次第に実世間と離れて行くのを自分でも感じていた。彼と世間を隔てている透明な隔壁が次第に厚くなるのを感じていた。そしてその壁の中にこもって、ただひとり落ち着いて書物の中の世界を見歩き、空想の殿堂を建ててはこわし、こわしてはまた建てている時にいちばん幸福を感じるようになって来た。彼は時々そのような生活の価値を疑ってみない事はなかったが、しかしどうにもならないと思っていた。この隔壁は自分で作ったものでもなければだれかが持って来たものでもなかった。そうしてひとりでにできたこの壁を打ち破るという事ができるとしても、その努力は今の健
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