とに対する非難のあったときには、必ずどこかにはあるにきまっている弱味と欠点を指摘し強調すれば一応の申訳は立つであろうし、また及第させたことを責める人があった場合には、これも必ずあるにきまっている長所と美点を示揚し讃美すればそれで始末がつくのである。そういうものであるからこそ学位の売買といったようなことも可能になるのである。
 結局は、やればやり得る学位を、無用な狐疑《こぎ》や第二義的な些末な考査からやり惜しみをするということが、こういう不祥事やあらゆる依怙沙汰《えこざた》の原因になるのである。たとえ多少の欠点はあるとしても、およそ神様でない人間のした事で欠点のないものは有り得ないことはあまりにも明白なことであるから、それよりも仕事の長所と美点を明白に認識して、それに対して学位を授けるということにすれば事柄はよほど簡単になるであろうと思われる。学位論文として著者が自信をもって提出するほどのものでなんらか斯学に貢献するポイントをもたないようなものは極めて稀であろうと思われるのである。あらを拾えば切りはない。あらはないが何の取《と》り柄《え》もない論文は百あっても学問は進まないであろう。
 学位というものは決してやり惜しみをするような勿体ないものでも何んでもないのであってただ関係学科に多少でも貢献するような仕事をなにか一つだけはした人間だという証明書をやるだけのことであって、その人がえらい学者であり何んでも知っているという保証をつける訳でもなんでもないのである。場合によってはむしろ反対にその専門中のある専門以外のことは何も知らないという免状になることすら可能なのである。
 学位に関するあらゆる不祥事を無くする唯一の方法は、惜しまず遠慮なく学位を授与することである。一日何人以上はいけないなどという理窟はどこにもない。百人でも千人でも相当なものであれば残らず博士にすればよい。それほど目出度いことはないのである。そうすれば学位に対する世間の迷信も自然に消滅すると同時に学位というものの本当の価値が却って正常に認識されるであろうと思われる。
 大学でも卒業した人間なら取ろうと思えばおそらく誰でも取れる学位である。取るまでの辛抱をつづけるかつづけないかの相違で博士と学士の区別が生じる。それだからこそ恐ろしく頭の悪い博士もあれば、図抜けて頭のいいよく出来るただの学士も捜せばいくらでも居るであろう。本来博士号は一つことを数年根気よく勉強したという身元保証書の一行である。人殺しをしようが詐偽をしようがそんなことは最初から誰も引受人はないのである。
 学位の出し惜しみをする審査員といえども決して神様でない限り、その人の昔の学位論文が必ず完全無欠なものとは限らず、ノーベル賞に値いするほどの大発見でもないのであろう。しかし人間は妙なものである。姑《しゅうとめ》にいびられた嫁が後日自分で姑の地位に立った場合には綺麗に昔の行届かなかった自分を忘れてしまうように、自分が審査員になる頃にはたちまち全能の神のような心持になる、ということも全然この世にないとは限らない。これは各自の反省すべき点であろう。可笑《おか》しいことにはある第三者から見ると被審査者の方が審査員よりもずっと優れた頭脳の持主であって、そうして提出された論文が審査員諸氏の昔の学位論文よりもずっと立派だと思われる場合においてすらも、審査員諸氏がその論文の短所だけを強調して落第させようと思えば落第させることが立派に出来、しかも落第させたことについて立派に責任をもち、立派に申開きを立てることが出来るのである。そうして更に面白いことには、良い論文を落第させればさせるほど、あたかもその審査員並びにその属する学団の品位が上昇するかのごとき感じを局外者に与えるらしく思い込まれる場合もあるようである。生徒に甘い点をつける先生は甘く見え、辛い点をつけるほどえらい先生らしく見えるかというと、あながちそうでもないのであるが、学位の場合は少しちがうものと見える。しかし、審査の重責に在る者は、あまりに消極的な考えから、ひたすらに欠点の見落しを惧《おそ》れるよりも、更に一層長所と美点に対する眼識の不足を恥ずべきではないかと思われるのである。
 学位売買事件や学位濫授問題が新聞雑誌の商売の種にされて持《も》て囃《はや》されることの結果が色々あるうちで、一番日本のために憂慮すべき弊害と思われることは、この声の脅威によって「学位授与恐怖病」の発生を見るに到りはしないかという心配の種が芽を出すことである。細心にして潔癖なる審査員達は「濫授」「濫造」の声に対して敏感ならざるを得ないのである。授与過剰の物議よりは、まだしも授与過少の不平の方が耳触わりの痛さにおいて多少の差等があるのである。
 学位を狙う動機がたとえ私利や栄達のためであろうが、ともかくも我邦で一人でも多く学問の研究に志し従事する人が多ければそれだけ我邦の学術は発達を刺戟される。屑のような論文が百も出るうちには一つくらいは少しはろくなものも交じる確率があり、万人の研究者の中には半人くらいは世界的の学者を出すプロバビリティーがあるかも知れない。それで、何かしら一つ仕事をすれば学位が必ずとれるとなれば志望者も自ずから増すであろう。あの男が取れるならおれでも取れるという人もあるかもしれない。その結果は研究者の増加を促し翻っては一国の学術研究熱を鼓吹することになるであろう。これに反して、五年も十年も一生懸命骨を折って勉強をした人の、外目にはともかくも相当なコントリビューションにはなるであろうと思われるものが些細な欠点のために落第させられたり、二十年も事務室の金庫に秘蔵されるようでは、先ずよほどの自信家でない限り論文提出について逡巡《しゅんじゅん》せざるを得ないであろう。提出を控えるだけならば誠に結構であるが、論文を書くまでに必要な肝心の研究を見合せて転向を想うようになる人の数が幾分でも多くなって来るのであったら、これは少し考えものではないか。
 博士がえらいものであったのは何十年前の話である。弊衣破帽の学生さんが、学士の免状を貰った日に馬車が迎えに来た時代の灰色の昔の夢物語に過ぎない。そのお伽噺《とぎばなし》のような時代が今日までつづいているという錯覚がすべての間違いの舞台の旋転する軸となっている。社会の先覚者をもって任じているはずの新聞雑誌の編輯者《へんしゅうしゃ》達がどうして今日唯今でもまだ学位濫授を問題にし、売買事件などを重大問題であるかのごとく取扱うかがちょっと不思議に思われるのである。学位記というものは、云わば商売志願の若者が三年か五年の間ある商店で実務の習練を無事に勤め上げたという考査状と同等なものに過ぎない。学者の仕事は、それに終るのではなくて、実はそれから始まるのである。学位を取った日から勉強をやめてしまうような現金な学者が幾人かはあるとしても、それは大局の上から見ればそう重大な問題ではないであろう。少なくもその日まで勉強したことはまるで何もしなかったよりはやはりそれだけの貢献にはなっており、その日から止めたことは結局その人自身の損失に過ぎないであろう。
 学位授与恐怖病の流行によって最も損害を受けるものは、本当に独創的な研究によって学位を請求する人達であろう。独創的なものには玉もあるが疵《きず》も多い。疵を怖がる眼には疵ばかり見えて玉は見えにくい。審査者に十分の見識がないと、そういうものの価値の見当はつけにくいものである。そういうものは消極主義の審査官の安全第一という立場から云えば保留した方が無事である。西洋の学者がそれについて何とかいうのを待ってその鼻息を窺《うかが》ってから決定した方がいい、ということになる恐れがある。ところが西洋では東洋人の独創などはよほどなものでないと見遁《みのが》されやすい。不幸なのは独創性をもって生まれた研究者である。
 日本の学術が進歩したとはいうもののまだまだ十分とは云われない。試みに世界における物理化学に関する研究論文の文献を集録した『フィジカリッシェ・ベリヒテ』及び『ケミカル・ニュース』の最近のものについて日本人の論文の数を検して見ると約三プロセントくらいのものである。少数な世界の強国の中の日本としてはあまりに少ない比率である。軍艦の比率を争うのも緊要であろうが、科学戦に対する国防がこの状況では心細くはないか。
 繰返して云うが、学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような論文でも沢山に出るうちには偶《たま》にはいいものも出るであろうと思われる。
 金を貰って学位を売るのはよくないであろうが、これより幾層倍悪い事があるまじき処に行われている世の中である。しかし、悪いことを咎めるのが大切であると同時に善いことを勧めるのもなおさら肝要である。議会でも暴露の泥仕合にのみ忙しくして積極的に肝要な国政を怠れば真面目な国民は決して喜ばないであろうと同様に、学位授与の弊害のみを誇大視して徒《いたず》らにジャーナリズムの好餌としていては、その結果は却って我邦学術の進運を阻害するようなことに多少でもなる恐れがありはしないか。この点を深く自ら考慮しまた識者の教えを乞いたいと思うのである。
 この問題に関しては述ぶべき事はこれに尽きないが、与えられた紙幅が既に尽きたから、これで擱筆《かくひつ》する外はない。執筆の動機はただ我邦学術の健全なる発達に対する熱望の外には何物もない。ただ生来の不文のために我学界に礼を失するがごとき点があるかもしれないが、これについては単《ひと》えに読者の寛容を祈る次第である。[#地から1字上げ](昭和九年四月『改造』)



底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年3月16日作成
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