るであろう。本来博士号は一つことを数年根気よく勉強したという身元保証書の一行である。人殺しをしようが詐偽をしようがそんなことは最初から誰も引受人はないのである。
 学位の出し惜しみをする審査員といえども決して神様でない限り、その人の昔の学位論文が必ず完全無欠なものとは限らず、ノーベル賞に値いするほどの大発見でもないのであろう。しかし人間は妙なものである。姑《しゅうとめ》にいびられた嫁が後日自分で姑の地位に立った場合には綺麗に昔の行届かなかった自分を忘れてしまうように、自分が審査員になる頃にはたちまち全能の神のような心持になる、ということも全然この世にないとは限らない。これは各自の反省すべき点であろう。可笑《おか》しいことにはある第三者から見ると被審査者の方が審査員よりもずっと優れた頭脳の持主であって、そうして提出された論文が審査員諸氏の昔の学位論文よりもずっと立派だと思われる場合においてすらも、審査員諸氏がその論文の短所だけを強調して落第させようと思えば落第させることが立派に出来、しかも落第させたことについて立派に責任をもち、立派に申開きを立てることが出来るのである。そうして更に面白い
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