って学位を請求する人達であろう。独創的なものには玉もあるが疵《きず》も多い。疵を怖がる眼には疵ばかり見えて玉は見えにくい。審査者に十分の見識がないと、そういうものの価値の見当はつけにくいものである。そういうものは消極主義の審査官の安全第一という立場から云えば保留した方が無事である。西洋の学者がそれについて何とかいうのを待ってその鼻息を窺《うかが》ってから決定した方がいい、ということになる恐れがある。ところが西洋では東洋人の独創などはよほどなものでないと見遁《みのが》されやすい。不幸なのは独創性をもって生まれた研究者である。
 日本の学術が進歩したとはいうもののまだまだ十分とは云われない。試みに世界における物理化学に関する研究論文の文献を集録した『フィジカリッシェ・ベリヒテ』及び『ケミカル・ニュース』の最近のものについて日本人の論文の数を検して見ると約三プロセントくらいのものである。少数な世界の強国の中の日本としてはあまりに少ない比率である。軍艦の比率を争うのも緊要であろうが、科学戦に対する国防がこの状況では心細くはないか。
 繰返して云うが、学位などは惜しまず授与すればそれだけでもいくらかは学術奨励のたしになるであろう。学位のねうちは下がるほど国家の慶事である。紙屑のような論文でも沢山に出るうちには偶《たま》にはいいものも出るであろうと思われる。
 金を貰って学位を売るのはよくないであろうが、これより幾層倍悪い事があるまじき処に行われている世の中である。しかし、悪いことを咎めるのが大切であると同時に善いことを勧めるのもなおさら肝要である。議会でも暴露の泥仕合にのみ忙しくして積極的に肝要な国政を怠れば真面目な国民は決して喜ばないであろうと同様に、学位授与の弊害のみを誇大視して徒《いたず》らにジャーナリズムの好餌としていては、その結果は却って我邦学術の進運を阻害するようなことに多少でもなる恐れがありはしないか。この点を深く自ら考慮しまた識者の教えを乞いたいと思うのである。
 この問題に関しては述ぶべき事はこれに尽きないが、与えられた紙幅が既に尽きたから、これで擱筆《かくひつ》する外はない。執筆の動機はただ我邦学術の健全なる発達に対する熱望の外には何物もない。ただ生来の不文のために我学界に礼を失するがごとき点があるかもしれないが、これについては単《ひと》えに読者の寛容を祈る次第である。[#地から1字上げ](昭和九年四月『改造』)



底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
   1997(平成9)年4月4日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年3月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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