は甲の詮索でぼろを出すということが往々ある。結局大勢かかればかかる程みんなが「検事」の立場になって、「弁護士」は一人もなくなってしまうような状況になりやすい。人殺しの罪人でさえも官費で弁護士がつけられる世の中に、効はあっても罪のない論文提出者は八方から虫眼鏡で瑕《きず》を捜され叱責されることになるのである。たとえ明白な誤謬《ごびゅう》は一つもない論文であっても、一人の人間が限りある時間に仕遂げた仕事であってみれば、あらゆる批評家のあらゆる方面から見たとき考え得らるべきあらゆる要求を満足させるようにあらゆる釘と栓を挿しあわせるということはほとんど不可能なことである。その証拠には西洋第一流の大家の最も優れた論文に対してさえも、第三流以下の学者の岡目から何かしら尤もらしい望蜀的《ぼうしょくてき》の不満を持ち出してそれを抗議の種にすることは比較的容易なことである。白梅の花を見て色のないのを責めるような種類の云わば消極的な抗議が、時と場合によっては幅を利かして審査の標準を狂わせるようなことも全くないとは云われない。審査員というものが神様でない以上これも止むを得ないことである。ましてや論文が独創的なものであればあるほど、疵やひびが多いのは当然であるから、そういうものが大勢の合議にかかれば無事に通過する気遣いはまず無いと云ってもいい。
 こんな訳からでもあろう。審査員というものには通例話の纏まりやすい二、三人というところが選ばれ、その親密な合議で事を決するようになっているものらしい。それで多くの場合には各自の意見を参酌《さんしゃく》し折れ合って大体の価値を決め、そうして皆が十分の責任を負うというだけの自信を得た上で及落を決定する。そうするのが実行上最も便宜であり、結果においても比較的公平を期することが出来るであろう。
 こんな工合であるから論文の価値は結局少しも絶対的なものでなく、全く相対的に審査員の如何《いかん》によって定まる性質のものである。尤も中にはほとんど如何なる審査員にも採用されるもの、また反対にどこへ出してもきっと落第させられるというものも偶《たま》にはあるであろうが、その中間のものがなかなかの多数であることは統計学的に考えても明白なことである。さてこそ、そこに依怙《えこ》や毛嫌いの私情が入り込む隙間があるのである。そういう中間的価値のものであれば、それを落第させたこ
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