うと、それは論文の「価値」というものの批判が非常に複雑困難なものであって、その批判の標準に千差万別があり、従って十人十色の批評者によって十人十色の標準が使用されるから、そこに批判の普遍性に穴があり、そこへ依怙《えこ》の私と差別の争いが入り込むのであろう。
ある学者甲が見ると相当な価値があり興味があると思われる一つの論文が、他の学者乙の眼から見るとさっぱり価値のない下らないものに見えることがあり、また反対に甲の眼には平凡あるいは無意味と映ずる論文が、乙の眼には非常に有益な創見を示すものとして光って見えることが可能であるのみならず、そういう実例も決して珍しくはないのである。
一体どうしてそんなことがあり得るか。この疑問はただに学界以外の世人のみならず、多くの学者自身によっても発せられるであろうと想像する。この疑問の解答が一般に知られていないということが、学位をめぐるあらゆる不都合な事件の発生の胚芽《はいが》となり、従っては一国の学術の健全な発達を妨害する一つの素因ともなり得るかと思われる。それ故にこの疑問を解くことは我国の学問の正常な発達のために緊要なことではないかと思われるのである。自分などはもとよりこの六《むつ》かしい問題に対して明瞭な解答を与えるだけの能力は無いのであるが、ただ試みに以下にこの点に関する私見を述べて先覚者の教えを乞いたいと思う次第である。
科学の進歩に伴う研究領域の専門的分化は次第に甚だしくなる一方である。それは止むを得ないことであり、またそういう分化の効能が顕著なものであるということについては今更にいうまでもないのであるが、この傾向に伴う一つの重大な弊は、学者が自分の専門に属する一つの学全体としての概景を見失ってしまい、従って自分の専門と他の専門との間の関係についての鳥瞰的認識を欠くようになるということである。それだけならば、まだしもであるが、困ったことには、各自が専門とする部門が斯学《しがく》全体の中の一小部分であることをいつか忘れてしまって、自分の立場から見ただけのパースペクティヴによって、自分の専門が学全体を掩蔽《えんぺい》するその見掛け上の主観的視像を客観的実在そのものと誤認するような傾向を生ずる恐れが多分にあるのである。平たく云えば、自分の専門以外の部門の事柄がつまらなく、自分の専門だけが異常に特別に重大に見えて来るのである。
前へ
次へ
全10ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング