るであろう。本来博士号は一つことを数年根気よく勉強したという身元保証書の一行である。人殺しをしようが詐偽をしようがそんなことは最初から誰も引受人はないのである。
 学位の出し惜しみをする審査員といえども決して神様でない限り、その人の昔の学位論文が必ず完全無欠なものとは限らず、ノーベル賞に値いするほどの大発見でもないのであろう。しかし人間は妙なものである。姑《しゅうとめ》にいびられた嫁が後日自分で姑の地位に立った場合には綺麗に昔の行届かなかった自分を忘れてしまうように、自分が審査員になる頃にはたちまち全能の神のような心持になる、ということも全然この世にないとは限らない。これは各自の反省すべき点であろう。可笑《おか》しいことにはある第三者から見ると被審査者の方が審査員よりもずっと優れた頭脳の持主であって、そうして提出された論文が審査員諸氏の昔の学位論文よりもずっと立派だと思われる場合においてすらも、審査員諸氏がその論文の短所だけを強調して落第させようと思えば落第させることが立派に出来、しかも落第させたことについて立派に責任をもち、立派に申開きを立てることが出来るのである。そうして更に面白いことには、良い論文を落第させればさせるほど、あたかもその審査員並びにその属する学団の品位が上昇するかのごとき感じを局外者に与えるらしく思い込まれる場合もあるようである。生徒に甘い点をつける先生は甘く見え、辛い点をつけるほどえらい先生らしく見えるかというと、あながちそうでもないのであるが、学位の場合は少しちがうものと見える。しかし、審査の重責に在る者は、あまりに消極的な考えから、ひたすらに欠点の見落しを惧《おそ》れるよりも、更に一層長所と美点に対する眼識の不足を恥ずべきではないかと思われるのである。
 学位売買事件や学位濫授問題が新聞雑誌の商売の種にされて持《も》て囃《はや》されることの結果が色々あるうちで、一番日本のために憂慮すべき弊害と思われることは、この声の脅威によって「学位授与恐怖病」の発生を見るに到りはしないかという心配の種が芽を出すことである。細心にして潔癖なる審査員達は「濫授」「濫造」の声に対して敏感ならざるを得ないのである。授与過剰の物議よりは、まだしも授与過少の不平の方が耳触わりの痛さにおいて多少の差等があるのである。
 学位を狙う動機がたとえ私利や栄達のためであろうが
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